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すきま

作者: 狼の土偶

主人公が男バージョンの「ホラー」を書いたので、今度は女バージョンも書いてみました。

少しでも楽しめたら、評価・ブックマーク登録・感想などをお願いします。

「あれ⁉ やだ、またこのドア少しのすきまが開いているわ」

 一人暮らしの部屋、引っ越してきた当初はこんなこともなかったのに、いつの間にかクローゼットのドアがしっかり閉まらなくなった。閉まったと思っても、いつの間にか僅かなすきまができてしまう。

「なーんか、こういうすきまって気になっちゃうんだよねー」

 嫌だなあと思いながらも、私は仕事へ行く支度をする。早くしないと遅刻をしてしまう。


 クローゼットのすきまが気になりはじめたのは、ちょうど贈り物が届くようになってからだ。

 贈り物————その言葉はいいものの様だけど、私にはそうでもない。だって、誰が置いていくのかが分からないから。

一年以上前から、16の日に必ずポストに入れてある。友達に話したら、スト―カーだって言われた。

 その贈り物は、いつも様々で、バスセットや、香水、可愛らしいハンカチタオルなんかだ。でも、怖くてどれも一度も使っていない。捨てるのもなんだか怖くて、どうしていいのか分からない。


 今日はちょうど16の日———今は朝だから、きっと何も入ってないだろうけど、帰ってきたときを考えると、不快感と恐怖が沸き上がってくる。でも、贈り物が置いてあるだけで、何か実害があったわけではない。だから、警察も取り合ってくれるはずがない。



 一日の仕事がもうすぐ終わりそうなときに、新人の時に私の指導係りだった先輩が、声を掛けてきた。

「ねえ、新人の高野君の歓迎会まだやっていなかったから、今日やるよ。参加できるでしょ」

「あ、はい。水野さんが幹事やるんですか?」

 水野さんはハキハキとした話し方をする綺麗な女性で、私は今も沢山助けられている。

「まあ、幹事ってほどのものでもないけどね。久々にパア~と飲みに行こう」

「はい」

 今日は億劫な気持ちがあったから、それも悪くないと思った。


「結構みんな集まったのね」

 水野先輩は私の隣に座って嬉しそうに言った。

「本当、そうですね。やっぱり水野先輩の力じゃないですか?」

「またあ、そんなこと言っても負けてやんないよ」

 もはや、新人の歓迎会というよりも、他の部署の人まで何人かいて、ただみんなで飲み会がしたいだけって気がしてくる。でも、こんな人数の席をよく確保できたものだと感心した。


 少しすると、席はグチャグチャになっている。みんなお酒が回って、適当に席を移っているからだ。私は、昔からあまり酔えないから、ただそれを見守っている。水野先輩も私の隣には既にいない。

「よお、隣座るな」

 他の部署の先輩が、お酒臭い息を吐きながら私の隣に座ってきた。この人は苦手だ………。

 この安田先輩は、アラサーで、顔がいいと噂だった。仕事もよくできるらしい。でも、女関係は派手で、会社の女や取引先の女にも手を出していたことがあるらしい。そのせいで、課長になる椅子が無くなったとかなんとか………?

「里乃ちゃんって、かわいいよね。控えめで大人しいけど、前からいいなって思っていたんだよ」

「ああ、そうですか———」

 こんなのに関わっていいことがあるはずがない。

 安田先輩は私の耳元に顔を近づけてきた。息がかかって気持ち悪い。完全にセクハラだ。

「なんだかつれないね。おっぱいだってこんなに大きくて、男好きする体をしているのに」

 そう言って、一瞬だったけど、私の胸をグッと掴んで直ぐに離した。一瞬のことで、誰も気が付いていない————。

「わ、私、帰ります———」

 私は、耐えられずに席を立った。お金はまた今度払えばいい。とにかく、こんな気持ち悪い男の横にいたくない。

「里乃ちゃん、次はもっと構ってね」

 安田はそう言うと、ゲラゲラと凄く下品に笑った。


 安田から逃れて家に帰り着いた私は、直ぐにラジオをかけた。

 このラジオは私が中学生だった頃、大好きな雅人お兄ちゃんが買ってくれたものだった。五才年齢が離れているお兄ちゃんは、私の母方の従兄だった。


 雅人お兄ちゃんのお父さんは私のお母さんのお兄ちゃん。でも、私から見て伯父さんにあたるその人の奥さん、つまり雅人お兄ちゃんのお母さんと私のお母さんは元々が友達どうし。

 家もすぐ近くに暮らしていたから、しょっちゅう行き来があって、お互い一人っ子だったけど、本当の兄妹のように、それ以上に仲良く育った。

 私が中学生の頃、ラジオ英会話で勉強をしようかと思うってお兄ちゃんに言うと、お兄ちゃんはラジオをプレゼントしてくれた。

 今では携帯にアプリを入れれば、簡単にラジオを聴くことができる。でも、私はラジオを聴くときは、お兄ちゃんにもらったラジオって決めていた。


 でも、お兄ちゃんはもういない。どこにもいない。

 この前、一周忌を迎えたばかりだ。お兄ちゃんの死因は未だにはっきりわかっていない。崖からの転落死ということは分かっているけど………。


 私は嫌なことがあったときは、お兄ちゃんからもらったラジオを聴きながら、これまたお兄ちゃんにもらったお守りを握りしめる。ラジオの局はなんだっていい。その時適当に合わせたものでいい———お兄ちゃんと一緒に聴くときもいつもそうだった。


 お兄ちゃんは私の初恋の人だった。本当に大好きだった。優しくてかっこいいお兄ちゃん。でも、もうどこにもいない………。


「お兄ちゃんに会いたいな」

 ラジオからは音楽が流れている。私はいつも持ち歩いているお守りを握りしめる。

「雅人お兄ちゃん、私、今日は本当に嫌なことがあったよ」

「り……里乃」

「えっ? お兄ちゃん?」

 確かにお兄ちゃんの声がしたような気がした。微かだったけど、お兄ちゃんの声だった………。

「里乃……里乃……」

「ラジオ? もしかしてラジオから聞こえるの?」

 流れてくる番組の中に、お兄ちゃんの声が微かに混ざっている。

 私の頬を涙が伝う。

「お兄ちゃん———雅人お兄ちゃん———」

「り、里乃……た、助け……」

 ピー、ガガガッ、ピー。

 急にラジオの調子がおかしくなった。最後の言葉———「たすけ」って聞こえた。助けてってこと? お兄ちゃん、まだ苦しんでいるの?

 私は、いろいろわけが分からなくなってきた。ラジオの電源を一回切って、また入れてみる。

 ラジオは再びいつも通りになっただけで、何も聞こえてはこなかった。



「あ、私、いつの間にか寝ちゃったんだ……」

 確かにベッドに横にはなっていた。でも、ずっとラジオを聴いていたはずなのに、私は眠ってしまったらしい。

 ラジオからは何かの番組が流れている。私は、ラジオをそのままにして、急いで支度にとりかかる。少し遅めに起きてしまったから、急がないと仕事に遅刻してしまう。

 時々、ラジオから変なノイズ音が流れてくる。

「なんか、昨日から急に調子が悪くなってきたな。大切なものなのに……つけっぱなしで寝ちゃったからかな」

 私は、ラジオの電源を切ろうとした。その途端、ガタっと音がして、振り返った。さっき洋服を取り出した後に、しっかり閉めたはずのクローゼットのドアが僅かに開いて、すきまができていた。


 その、クローゼットのすきまからは、何も見えない。ずっと奥まで暗い空間が続いているような気がして、なんとなく怖くなった。私はあえて、クローゼットのドアを開けた。

 まだ消していないラジオは、ノイズ交じりの番組が流れている。私はラジオを消して、クローゼットをあけ放ったままにして出かけた。


 マンションの部屋を出て、一階までいったとき、ふと自分の家のポストを見る。

 昨日は逃げるように帰ってきてしまったから、ポストを確認しなかった。昨日は16の日だから、また贈り物が入っているかもしれない………。

 私は、ポストの中は確認しないで、そのまま仕事場へと向かった。



 仕事場へ着くと、社内は少しざわついていた。

「昨日はお疲れ様です。あの、何かあったんですか?」

 隣の席の先輩に訊いてみる。

「ああ、なんか安田さんっていただろ? 女関係が派手なさ。あの人昨日死んだってよ」

「えっ⁉ だって、昨日は変わらずに飲み会にも参加していたのに………」

 私は驚きが隠せない。昨日は確かに嫌な目にあったけど、死を望むほどではなかった。

「それが、飲み会の帰りに、ホームから落ちたって。かなり飲んでいて、足を踏み外したんじゃないかって。目撃した奴もいないって話だ」

「なんか詳しいですね………」

「もう、すげー噂になっているからな」

 安田は女に確かにもてた。でも、ひどい扱いをされた女も何人かいるときいている。おまけに、最近は女にセクハラまがいのことをするという話もきいている。昨日の私も、被害者の一人になる。

 だから、きっといろいろ恨みをかっているのかもしれない………?

 でも、昨日普通にいた人が、あっさりと死んでしまったことに対して、その日一日、私は気分が悪くなっていた。


 家が近づくと、ポストを確認しなくちゃということを思い出した。

 いつも贈り物が、必ずポストに入っているわけじゃない。大きめのものは直接配達されてくる。送り主の名前も書いていたこともあるけど、存在しない人だった。

 ポストを見ると、ダイヤル式の鍵がついているのに、それが外れていて、僅かにすきまがあいていた。

 ドクンと私の胸が鈍く脈を打つ。

 背後で、僅かに音が聞こえた様な気がして、勢いよく振り返る。でも、誰もいない。辺りを見回しても誰もいない。

 私は、ポストの中身を恐る恐る見た。中には、小包が二つと他にも何か入っている。明らかにポストを開けないと入らない荷物だ。そして、その二つの小包をポストに入れると、ポストの蓋が完全には閉まらず、どうしてもすきまが開いてしまうようになっている。

 私は、そのまま放置したい気分になった。

ポストの鍵の番号を何故知られているのか? いったい誰に? 

私はポストから小包二つを取り出すと、そのまま家から一番近いコンビニまで行って、そこにその二つの小包を捨ててきた。二つとも宛名がないから、16の日の贈り物で間違いないはず。もし、そうでなくても、構わないとさえ思った。

ポストのダイヤル式のカギは、番号をすぐに変更しておいた。

家の中に入ると、少しだけ気分が落ち着いた。

私はラジオをつける。ラジオからはクラッシックの音楽が流れてきていた。私はラジオをそのままにしてシャワーを浴びる。


シャワーを浴びて、ベッドに腰掛ける。その正面にあるクローゼットを見て違和感を覚えた。

「あれ? 私、確か開けて出ていかなかったっけ?」

 朝、あけ放っていったはずのクローゼットが閉まっている。ううん、正確には今朝と同じように、僅かなすきまが開いている————。

 私は首をブンブンと何度も振った。きっと私の勘違いだ。そうに決まっている。今朝は急いでいたし………。

「里乃」

 微かだったけど、どこかから雅人お兄ちゃんの、私の名前を呼ぶ声がした気がした。

「もしかしたら、またラジオからかな?」

 私はラジオに耳をあててみる。

「里乃……あい……つが、死……んで、よか……った」

 私は、ラジオから耳を離した。確かに「あいつか死んでよかった」と聞こえた。お兄ちゃんの声でだ………。

「お兄ちゃん、誰かが死んでよかっただなんて……そんなことないよ………」

 私は急に悲しくなってきて、グスグスと泣き出した。もちろん、安田が死んだことが悲しかったわけじゃない。ただ、お兄ちゃんにそんなことを言わせたことが悲しかった。


 翌日は土曜日で仕事は休みだった。特に予定もない私は、食材でも買いにいこうと思って玄関の扉を開けた。

「ひっ!」

 扉を開けた私の足元の横には、昨日、コンビニに捨てにいったはずの小包が二つ置いてあった。少しだけ昨日よりも汚れているように見えたけど、確かに昨日の小包だった。

 私は、玄関の扉を閉めて再び中に入った。

「な、んで? 確かに昨日捨てたはずだったのに————」

 心臓がバクバクいっている。正直、怖い。気持ち悪い。こんなときお兄ちゃんがいてくれたらよかったのに………。


 食材がほとんどないから、買い物に行かないわけにはいかなかった。私は、意を決して、勢いよく外へ飛び出した。小包は見ないようにして、そのまま鍵を閉めて、買い物へ行った。

 

 買い物を終えて、帰ってくると、扉の横の小包は二つとも無くなっていた。

 最近変なことが多い気がする。さっきのは、無意識に気にしていたから目の錯覚だった? 

「私、疲れているのかな?」

 家の中に入って、買ってきたものを冷蔵庫に入れる。

 

 私はベッドにゴロッと横になって、ラジオをつける。

 疲れていたとしても、不可思議なことが多い気がする。なんだか変だ————でも、ラジオからお兄ちゃんの声が、時々聞こえてくることだけは、嬉しいことだな。

 クローゼットの扉は、僅かなすきまが開いている。昨日帰ってきて以来、クローゼットの扉には触っていない。洗濯物から引っ張り出して服を着ているから。

「に、にげろ……」

 突如、ラジオからお兄ちゃんの声が聞こえてきた。

 お兄ちゃんは、「にげろ」って言った?

「り、里乃……にげろ。部屋……か……ら……に、げろ」

 私の中に緊張感が広がっていく。

なんでお兄ちゃんが、こんなことを言うのか分からない。でも、もしかして、この部屋に何か危険があると言うの?

 私は顔を動かさずに、部屋の中を見回した。

 少しずつ、自分の心臓の音や呼吸音が、鮮明に聞こえてくるようだった。

 手の平には、汗をかき始めている。

 だって—————微かに部屋の中がさっき出ていったときと違っている———それは、とても小さな変化だ。ティッシュ箱の位置が少しずれていたり、台所の流しに確かに置いていったはずのコップが、テーブルに置いてあったり————。

 でも、一番怖いのは、部屋の隅に———コンビニに捨てたはずで、今朝玄関の外にあった、二つの小包が、他のものに隠されるようにして置いてあること。あれは、確かにあの小包だ。


 クローゼットは———やっぱり僅かにすきまが開いている。その中から、カタッと小さな音がしたけど、ラジオの音でかき消された。

「に、にげろ……里乃」

 お兄ちゃんの声が聞こえているのは……私だけだよね?

 と、とにかく逃げなくちゃ—————きっと、あのクローゼットに誰かいる———贈り物の人だ———お兄ちゃん——私、怖い。

「あ、私、お味噌買うの忘れちゃった」

 私はそう言いながら、立ち上がる。私が逃げることを悟られたら、すぐに捕まるかもしれない。だから、私は外へ行く理由をつけた。

味噌は買う必要もない。でも、パッと思いついたものだった。


願わくば、クローゼットにいる人が、私と鉢合わせるのを望んでいませんように。もしかしたら、私がいない間に物色したかっただけかもしれない?

それがダメなら、一層のことサイコパスならいい。前に何かで読んだけど、こんな感じのシチュエーションでは、サイコパスは自分から行くよりも、相手が開けるのを待っているのだとか———何も知らない相手が開けた時のことを想像して、待っているのが好きだって書いてあった。


ベッドから部屋までの距離は、とても短いはずだ。一人暮らしの部屋が、そんなに大きいわけがない。でも、その距離が今日はすごく遠く感じる。

一歩一歩前に足を進めるごとに、心臓が止まってしまうのではないかと思うほど、自分が緊張しているのが分かる。


玄関の扉に到着しそうな時に、バンッと大きな音がして、私はビクついて後ろを振り返った。

黒っぽい服装をしている男が、私の元へ勢いよく向かってくる。


玄関の扉を開けようとしたけど、開かない。か、鍵がかかっている。手が強張って、思うように動かない。

 それでも、どうにかして、扉を大きく開けた。

「キャー」

 本当は「助けて」と叫ぼうとした。でも声にならずに、私の喉からは黄色い叫び声が上がった。

「キャー」

 助けを呼ぶために、私は今度こそ「助けて」と叫ぼうとしたけど、やっぱりうまく言葉にならずに、黄色い声だけが上がった。

 二回目の私の黄色い声が上がるとほぼ同時に、私の口は男の手で塞がれ、私の部屋の中に引き込まれた。


 助けて、助けて、誰か———お兄ちゃん。

 強張ってうまく動かない体だけど、それでも男に抵抗する。

 

 そこへ、警察が入ってきて、男は直ぐに取り押さえられた。ちょうど、付近を巡回中だったらしくて、私の叫び声で直ぐに駆けつけてくれたらしい。

 私は、ガックリと力が抜けて、その場にしゃがみこんだ。

 あとのことはあまり覚えていない。他にもたくさんの警察がやってきたこととか、女性の警察に優しく話しかけられたこととか—————。


 私は、翌日に大家さんに言って、玄関のカギを変えた。

 私の部屋のクローゼットにいた男は、やっぱり16の日に私のところに毎回贈り物をしていた人だった。

 調べていって分かったことだけど、安田は足を踏み外したわけじゃなくて、その男に突き落とされて電車に引かれて死んでいた。

 男は、私が安田にセクハラされる現場を見ていたのだ。


 今回の贈り物の中身は知らない。知りたくもない。

 ただ、男が私の家にいたのは、最初は私を襲おうと思ったからではなかったとか。小包を私が家の中に入れないから、それを不満に思って、小包を中へ入れたかったらしい。

 それにしても、私の家の合いかぎも所持していた。何度も私の家に勝手に入ったことがあったと知って、本当に気持ち悪かった。


 家族からは、実家に戻っておいでと言われたけど、この部屋を離れる気に私はなれない。この部屋には、雅人お兄ちゃんとの思い出が詰まっている。

 お兄ちゃんが死んでしまう直前、私はこの部屋のこのベッドの上で、初めてお兄ちゃんと肌を重ね合わせた。

 あまりの幸福に私は泣いてしまった。お兄ちゃんも涙を流していた。だから、この部屋を離れるなんて、考えることはできっこない………。

 従妹同士は結婚もできるし………私はそうなると思っていたのに…………。


 私は、次の休みに、お兄ちゃんの身体が落ちて行った崖に行った。そこへ行くのは初めてのことだった。

 海に面しているその崖は、お兄ちゃんが付き合っていた女と、最初にデートへ行った場所だとお兄ちゃんに聞いたことがあった。その場所を目指していたわけじゃなくて、適当に立ち寄った場所だけど、その女が高いところが苦手で、その場所を怖がっていて可愛かったとお兄ちゃんは話していた。


 結婚も考えていると言っていたのに………お兄ちゃんはその女に裏切られた。

 女は、お酒に酔った勢いで、他の男と寝たのだ。しかも、そのときだけではない。その後何度もだ。

 結局、その女は雅人お兄ちゃんと別れることになった。そして、その後にフラフラと道路に飛び出して車に轢かれて死んだ。

 死体からは、薬物反応もあった。精神がおかしくなり、幻覚でも見ながら車の前に飛び出したのだろうということだ。


「可哀想なお兄ちゃん………こんなに高いところから………」

 私はお兄ちゃんが落ちた崖をのぞいてみる。本当に高い場所で、下の方が岩でゴツゴツしている。高いところがそんなに苦手じゃない私でも、見ているだけで怖くなってくる。



 私は、お兄ちゃんが死んだとき、後を追って死にたかった。でも、お兄ちゃんが私を愛してくれた後に言ってくれた言葉……私はお兄ちゃんとの約束を破ることはできない。

「里乃、お前は絶対に死んだりするな。頼むから長生きすると約束してくれ」

 お兄ちゃんはそう言って、私にそのことを約束させた。

 別れて間もない女が死んだことが、優しいお兄ちゃんには相当にショックだったのかもしれない。あんな女の為に………。



 夕方頃、家まで戻ってくると、誰かがマンションの前にいた。見覚えもある顔だった。

「よお。久しぶりだな」

「どうして、ここにいるの?」

「いやあ、金が欲しくてな」

「お金なんてないわ」

「そんなこと言っていいのか? このまま警察へ行ってもいいんだぜ」

「証拠何てないでしょ」

「でも、確実にお前は怪しまれるだろうな」

 同じマンションに暮らす人が、不審げな目で私とその男を見ながら通り過ぎていった。

「ほら、既に怪しまれているぜ」

「ちょっとこっちへ来て」

 私は、近くの公園へ男を連れていった。

 遊具もほとんどないその公園は、既に誰もいなかった。

「それで?」

「だーから、金だよ」

「だいたい、何で今更?」

「ああ、そうか。お前は知らなかったんだもんな」

 この男はいったい何を言っているの?

「お前をストーカーしていた男、捕まっただろ? 今まではあいつがお前の代わりに金を払っていたんだ」

「なんで?」

「お前に近づくなってさ。最初は殺されるかと思ったぜ。だけど俺が死んだら、お前があの女を死に追いやった証拠が明るみに出るっていったら、おとなしく金だけ払い続けた。お前はあの男に感謝するべきだな」

「まさか、全部話したの?」

「まあな。お前が俺を使って、お前の従兄の男の女をはめようとしたやつな。酒に薬入れて寝かせたことも、さらに薬中にしたこともな」

 男はニヤニヤしている。

「まさかと思うけど、他にも誰か知っているの?」

 こんな男に頼んだのが間違いだった。ずっと貯めていたお金を全部使ったっていうのに……。

「お前のところに金を頼もうと思っていたら、お前の大切な従兄の男に会ったからな。お前の代わりに金を払うと言うから、全部教えてやった。まあ、本当はお前にこれ以上付きまとわない約束だったけどな。あの男が死んだから、それを守る必要もないしな」

 私は、怒りに震えた。ここまで腹が立ったのは、生まれて初めてだった。

「こ、このー」

 私は、男に掴みかかったけど、逆に男に張り倒されて、地面に倒れてしまった。

「まあ、俺は金さえあればいいから。お前が悪いんだぜ。あの男が捕まってなかったら、お前のところに行くことはなかったんだからな。まあ、また来るわ。金を用意しておけよ」

 男はそう言うと、さっさと行ってしまった。


 私は膝を擦りむいたし、足を少しくじいたけど、なんとか自分の家まで帰り着いた。

 部屋に入ると、私はまずラジオをつけて、お兄ちゃんにもらったお守り———お兄ちゃんのお骨のかけらを、こっそり取ってきて入れたお守りを握りしめる。

「り、里乃……」

 ラジオから、お兄ちゃんの声が聞こえてくる。

「お兄ちゃん、ごめんなさい。お兄ちゃんが、誰かと付き合っても構わなかった。でも、私以外の誰かと結婚することだけは、どうしても嫌だったの—————」

 私は、グスグスと泣き出した。

「り、里乃……もういいんだ。お前に気が付かなかった俺が……悪かった。だから……俺が全部持っていくつもりだった」

「お兄ちゃん……」

「お……れたちは、従兄だから………法律は許しても、親は許さない……そう思っていた」

「お兄ちゃん」

「お……前を許せなかったけど、どうしても……守り……たかったし、愛おしかった……でも、耐え切れずに……い……命を手放した俺を、許してくれ」

「お兄ちゃん。私が悪かったの……」

 ピー、ガガガ、ザーザー。

 急にラジオからお兄ちゃんの声が聞こえなくなった。

「お兄ちゃん、お願い、声を聴かせて」

 私はラジオを抱え込んで泣き続ける。

「里乃、あの男はもうじき死ぬ」

 急に部屋の中から聞こえてきたその声に、私は顔を上げた。クローゼットを見た私は、一瞬ギクッした。

 クローゼットの扉の僅かなすきま————声はそこから聞こえてきた。そして、そこには、確かに人が————お兄ちゃんの姿がある。

クローゼットの扉の裏側に、ピッタリくっつくようにして立っている。その開いているすきまから、私のことをジッと見つめている。見た瞬間は少しだけ怖かったけど、お兄ちゃんが怖いわけない。

「お、お兄ちゃん」

 ラジオからは、ザーザーというノイズだけが聞こえる。

 私は、ラジオをベッドに置いて、クローゼットに近づいた。僅かに開いているすきまの前に立つ。

「お兄ちゃん」

 私はそこにお兄ちゃんがいるのを感じながら、ゆっくりと扉を開ける。

 でも、あけ放った扉の中には、誰もいない。部屋にはラジオのノイズだけが鳴り響いている。


 その晩、私を脅してきたあの男が、車にはねられて死ぬ夢を見た。夢の中でお兄ちゃんが私を抱きしめてくれていた。


 私を脅してきた男は、一切私の前に姿を現さない。

あれからもラジオから、時々お兄ちゃんの私の名前を呼ぶ声がする。

 クローゼットの隙間からは、お兄ちゃんが見える時が時々あって、私はそれを心待ちにしている————。


 里乃……お前は俺だけのものだよ………どんなことからも、きっと守ってあげるから……。


 今日も、お兄ちゃんが私にラジオから語り掛けてくれる。


読んでくださりありがとうございました。


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