ヒイラギへ
誰かの声がするんだ。
一人、部屋に籠って執筆をしているとき、カタカタとパソコンのキーボードを叩く音に混じって、誰かの声がする。男の子の声だった。何を言っているのかはよくわからない。ぶつぶつ…、ぶつぶつって、独り言みたいだった。
一瞬幽霊の類を想像した。だけど、すぐに違うってわかった。
誰かの姿が見えるんだ。
書き上げた小説を印刷して、誤植が無いか確かめている、ふとした瞬間、私の手に誰かの手が重なって見える。リビングにコーヒーを取りに行って部屋に戻った時、椅子に誰かが座って、パソコンを叩いている。そんな幻覚を見る。
それだけじゃない。眠っている時、別の人間の人生を夢に見る。
夢の中で、私は男の子になっていて、現実世界と変わらず、夢中でパソコンを叩いているんだ。周りに蔑まれながらも、「今に見てろ!」って意気込んで、腱鞘炎になるくらい、視力が低下するくらいに小説を書いている。薄暗い部屋にはみるみる、書いた原稿が溜まっていって、足の踏み場が無くなっていた。
心臓が脈動するたびに、魂の一部が白い光となって腕を伝い、指先を伝い、そして、キーボードを通して一本の小説になっていく姿を見た。
お風呂に入ることも、食べることも、眠ることも忘れて、小説を書く男の子はまさに、小説の鬼だった。
そして、私は気づいた。私が買った「未来」は、この男の子のものなんだと。
少し補足をしておくと、「私が未来を買った」のは、少し語弊がある。
私は、未来を買い与えられた。
そう、私の実の父親に。
私の父親は、母さんが私を産むより前に、「未来を買う」ことをしていた。未来を買うことは、別に悪いことじゃない。投資みたいに、上手くやれば買った額以上の金を未来で得ることができる。いうなれば、「未来投資家」ってやつだろうか?
未来売買人に自分の未来を見てもらい、不都合なことがあれば、売り払ってしまう。そして、売って得た金や、働いて得た金を器用に使って、色々な未来を購入し、自分が思う通りの事象を起こさせる。そして…、狡猾に生き続け、莫大な資産を得た。
得た資産で、社長職の未来を購入し、そして、さらなる富を得た。
頂きに昇りつめた父親は、それ以上未来の売買を行うことは無く、母さんに私を産ませ、あとは家族三人で、安泰な生活を送った。
だけど、一度「運命はどうにでもなる」ということを経験した父親にとって、私の「未来」は耐えがたく、そして許しがたいものだった。
私は父親が期待していた「娘像」とは真逆に育ってしまった。
小学生の時点で勉強もろくにせず、国語の授業を嫌い、体育を好いた。
中学に上がると、陸上部に入り、毎晩遅くまで練習に没頭した。
高校に上がると、陸上推薦でスポーツ強豪校に進学し、走ることを心の底から楽しんだ。
父にはそれが気に入らなかったんだ。父親は頭がいいから、勉強一筋だった人だから…、外で汗まみれ泥まみれになる私を心底嫌った。何度も、「野蛮なスポーツなんて辞めなさい!」と怒鳴った。陸上の何処が野蛮なんだよって話だ。
私は無視をした。私には走ることしかないから、大学もスポーツ関係の大学に行く。将来は、スポーツに関連した仕事に就く。そう決めていた。
娘に拒否をされた父親はどうすると思う? 娘の意思を尊重する? 違う。娘がわかってくれるまで説得する? 違う。もう一度、未来売買人のところを尋ねたんだ。
未来売買人に、私の未来を見てもらった父親は、私が将来、「スポーツ推薦で大学に進学して、そこで、そこそこの活躍をして、伸び悩み引退。教員免許を取り、高校で陸上部の顧問をするようになる」という運命にあることを知った。そして、その未来を売り払った。
私の未来は空虚になった。そこに、父親は新たな未来をねじ込んだ。そう、ヒイラギの未来だ。「体育教員になるくらいなら、大成した小説家で羨望の眼差しで見られる方がいい」。って判断したんだろうね。
その日から、全てが変わった。
私の膝に激痛が走るようになった。
病院で診てもらったら、骨肉腫だってわかった。すぐに手術した。無事に成功して、リハビリをすればまた走れるようになった。だけどね、一度膝にメスを入れたんだ。もう、前のように思い切り走ることはできなかった。
私は陸上を引退した。父親はにこにこ笑いながら、「また新しい夢を見つければいいさ」と言ってくれた。
次の日から、また何かが変わった。
今まで小説なんて読んだことが無かったのに、興味なんて無いのに、私は原稿用紙を机の上に広げて、ペンを握っていた。そして、一日にして、短編小説を完成させてしまった。まるで操り人形のように、短編小説賞に応募して、優秀賞を受賞した。
父親は喜んでいた。「小説家か! 素晴らしい職業じゃないか! 読者に、夢と希望を与えるんだからな!」って。
混乱する私のもとに、未来売買人が現れて、ことの経緯を教えてくれた。
私はお父さんを責めた。だけど、お父さんは悪びれる様子は無く、開き直って、「父さんの期待に応えられないお前が悪い」と言った。
私は未来売買人にお願いして、すぐに自分の未来を買い戻そうとした。だけど、その未来はすでに売り切れてしまったと言われた。
スポーツ誌を見ていると、競技会の結果が出ていた。女子五〇〇〇メートル。第十六位でゴールした女の子が、私の未来を買った者だと教えてもらった。
その姿を見た時、私は未来を買い戻す気力をすっかり失ってしまった。
推薦で大学に進学した割には、大して速くなっていない。順位だって、下位の方。平凡。平凡。平凡。中途半端…。
ああ、私の未来って、買い戻すほどのものじゃないなって、思った。
それからも、私は、「書きたくない」と思っていても、気が付けば机の上に向かっていて、小説を書いていた。何本も、何本も、何篇も、何篇も…。
聞こえる。誰かの声が聞こえる。男の子の声が聞こえる。
見える。誰かの姿が見える。男の子の姿が見える。
ああ、これは、私が買い与えられた「未来」の所有者だ。
ごめんなさい。
私は幻聴に向かって謝った。私のお父さんのせいで、私のせいで、キミの輝かしい未来を奪ってしまったよ。キミはこれから先、どれだけ強く願ったとしても、夢が叶うことは無い。決してない。何もかも上手くいかない空虚な日々を送り続けるんだ。
わかる。何も無いところから、この「未来」が生まれたわけじゃない。
言葉の通り、「血の滲むような努力」。その末に、この未来が生まれたんだ。
キミが十何年と繰り返した努力によって作り出したこの「未来」を…、私のお父さんの自尊心のために、失ってしまった。「時間は金で買える」とはこのことだ。
ごめん。ごめんなさい。ほんとうにごめん…。
だから…、私は返すことにしたよ。
ヒイラギ、あなたと初めて出会った時のことを覚えているかな? そう、私がヒイラギの部屋に押し掛けた時のことだよ。
あの時から、この「運命」は決まっていたんだ。
私はヒイラギにお願いして、小説のあり方を教わった。訳もわからず生み出せてしまうこの小説を、さらに洗練させた。
小説家として、一生懸命生きて、私は私の「未来」を豊かにしてきた。
わかるかな?
この手紙を読んでいるということは、もう、あなたの中に「未来」が返還された後だよね。
本来、未来を買い戻すことはできなかった。何故なら、それは未来ではなく、「現在」に変わってしまったから。だけど、裏技があるんだ。
そう、「未来を派生させる」ことだよ。花で例えるなら、私は球根を買った状態なんだ。それを土に埋めて、肥料と水をやって、太陽の光を一杯に浴びせる。そうしたら、球根は根を伸ばし、葉を広げ、そして、立派な花になる。
私が買った「小説家として大成する未来」は、私によって、「小説家として大成したのち、さらなる飛躍を見せる未来」に派生した。これならば、本人に返すことができるようになるんだよ。花咲いた百合を植えるようなものなんだ。
本当はもっと派生させたかった。ヒイラギが老衰で死ぬまで幸せでいられるくらいに、未来の枝葉を広げてあげたかった。だけど、キミが悲しそうな目をしていたから。今に死んでしまいそうだったから、早めに計画を遂行した。
未来を売って得た金を使って、空虚になってしまったヒイラギの中に、派生させたキミのヒイラギの未来を「買い与えた」。
これで、全て元通り。いや、さらに良くなった。
時空は曲がっちゃったけど…、それでいいよね? あの小説賞で大賞を受賞したのはヒイラギだ。小説が売れて、富を得たのはヒイラギだ。映画化した小説の原作者はヒイラギだ。今売れに売れている第二作品目を書いたのはヒイラギだ。
罪悪感を覚えているであろうヒイラギに気休めを言っておくよ。
最初からこうなる「運命」だった。
さあ、そろそろ腕が疲れてきたから締めるよ。
ヒイラギはこれから、なににも怯えなくていい。全てが上手くいく。書いたものは全て売れる。可愛らしい奥さんができる。子供も生まれる。美味しいものを食べられる。沢山遊ぶこともできる。高いマンションに引っ越して、下々の人間を見下ろすことだってできるさ。
もう、何も苦しいことは無いんだよ。
私のことは気にしないで。そうだね…、うん、私はすっからかんになっちゃったけど、それでいい。元から、金のある生活には辟易していたところなんだ。空虚な日々をひっそりと生きて、小説のことは大っ嫌いだけど、キミが書くものだけは読むとする。
尻軽って思われるかもしれないけど、私、ヒイラギのこと、好きだったよ。根暗で、皮肉ばっかり叩くところはいかがなものかと思っていたけど…、うん、好きだった。多分、努力している人間が大好きなんだと思う。
だから、頑張っているヒイラギを見るだけで、幸せなキミを見るだけで、私は幸せなんだ。
今までありがとう。
ヒイラギのこれからの日々に幸があることを(確定なんだけどね)、祈っています。
さようなら。




