第九章『かなしいや』
夏が嫌い
でもカブトムシは好き
「ヒイラギさん…」
誰かが僕の名前を呼んでいる。
誰だ…?
「ヒイラギさん…、大丈夫ですか?」
誰が…、僕の名前を…。
「………」
目を開けた時、白い天井が見えた。消毒液の匂いが鼻を掠めた。
そのデジャブのような光景に目をぱちくりさせていると、僕の顔を、女が覗き込んだ。
「ヒイラギさん? 大丈夫ですか?」
「………」
美桜…、じゃない。誰だ?
黒いおさげ髪。丸眼鏡の奥に、リスのようなくりっとした瞳。唇は薄くて、頬は若干桜色。藍色のスーツを身に纏い、「勤勉」って感じの雰囲気を纏っている。
まじで、誰だ?
「え……」
僕が病室のベッドから身体を起こそうとしたところを、その黒髪おさげ女が制した。
「ああ! ダメですよ! 足の骨が折れているんですから! まだ寝ていないと!」
「え……」
ふと、足元を見る。
僕の右脚に、白いギプスが装着され、天井から吊るされた帯に吊るされていた。
「………」
ぺたぺたと顔に触れる。頭には包帯。頬には絆創膏が貼られていた。
「いやあ、良かったです。本当に心配しました」
おさげの女は、ナースコールを押しながら、安堵の息を吐いていた。
「もう、気をつけてくださいね! 洗濯物なら、私に言ってくださればやっておいたんですから! 先生は執筆に集中していればいいんです!」
「執筆…」
「はい! もう、各所を回って、頭を下げた私の身にもなってくださいよ。とにかく、お体は大事に。そして、危機管理能力を持ちましょう。先生は忙しい人なんですから。○○出版の長編一本、△△出版の短編二本、あと、××プロダクションの実写映画の打ち合わせ…、全部伸びちゃいました。ここからきついですよ? 足が折れた状態で書かないとだめなんですから!」
「………」
長編…? 短編…? 実写映画…?
一体、何の話だ?
僕が混乱していると、病室に髭を蓄えた先生が入ってきて、軽い診察を行った。目の色を見たり、口の中を見たり、簡単な数学の問題に答え、自分の名前を言ってみたり。テーブルの上に置いた記号のようなイラストを、指でなぞったりもした。
事故当時のことは覚えているか? という質問にだけは答えられなかった。お医者さんは「うーん」と唸り、「健康。若干の解離性健忘あり」という診断を下した。
「もうしばらく入院して、様子をみましょう」
お医者さんはそう言って、病室を出ていった。
ぼーっとして、扉の方を見ていた僕は、隣のおさげお女が静かに慌てふためいているのに気づいた。
「…どうした?」
「あ! いや! はい! 先生! 大丈夫ですか!」
「…先生って…」
僕のことだよな。
「ああ、大丈夫だよ」
「で、でも! さっきお医者さんが、解離性健忘って! ど、ど、どうしましょう! このままじゃ…、上に怒られるのは私だ! あの、一+一ってわかりますか? その、徳川将軍言えますか? 歴代の!」
「流石に馬鹿にし過ぎじゃない?」




