その⑯
「くそ! 何を…」
そう言いかけた瞬間、僕の口が塞がれる。
美桜が僕の唇に、自分の唇を押し当てたのだとわかった。
初めてのキス。レモンの味なんてしない。「エターナル・サンシャイン」だとか、「マイ・ブルーベリー・ナイツ」みたいに、そんなロマンティックなものではない。歯と歯のぶつかり合い。敵を窒息させる蛇のように、全体重を使って押し付ける。
嬉しさよりも、怒りが込み上げた。
こんなもので、僕の気が鎮まると思っているのか? 「やった! キスされた! 生きていけるぞ!」ってなると思っているのか?
「てめえ、馬鹿にするのもいい加減にしろよ…」
「ごめん」
唇を離した彼女は、涙声でそう言った。
「本当にごめん…、全部、私のせいなんだ」
「………」
立ち上がる美桜。
涙を流しながら僕を見下ろすと、にこっと笑った。
「ヒイラギが死ぬ必要なんて無いんだ。全部私のせいだから…」
「…何がだよ…」
「すぐにわかる。今日はその話をしに来たんだから」
美桜は笑ったまま、続けた。
「未来が『空白』なの? なにも良いことが無いから死ぬの? 大丈夫。何も無いなら、私が埋めてあげる。『幸せだ』って感じるくらい、埋めてあげる。だからさ、生きていてよ。大好きなんだから」
「…気に入らないよ」
僕は唇を拭いながら言った。
「そんな言葉で…、僕の未来が埋められるわけないだろう?」
「うん、無理だね」美桜はあっさりと認めた。「だけど大丈夫。もうすぐ、全てがよくなる…。ヒイラギは報われる…。そうなる運命なんだ」
まるで預言者のように、彼女は言った。
「だから、少しだけ待ってね。ほんの少しでいいから、私を信じてね」
僕の頭を撫でると、落ちていた杖を拾い、彼女は踵を返した。
少し歩いて、首だけで振り返ると、またにこっと笑った。
そして、意味深長なことを言った。
「さようなら!」
そう言い残して、彼女は部屋を出ていった。
ぱさっ…と、宙を舞っていた原稿用紙が、僕の頭に落ちる。
僕は彼女の香水の香りを吸い込み、「ははっ…」と力ない笑みを浮かべた。
なんだよ、あいつ、変なこと言いやがって…。
「あほらし…」
僕はそう吐き捨てると、ベランダから飛び降りた。




