その⑫
そう、一歩踏み出した時だった。
マンションのエントランスに、見慣れた人影。神宮寺さんだった。
「……」
なんで? 神宮寺さんがここに?
僕は反射的に、自動扉前の柱の陰に身を隠した。
神宮寺さんは僕に気づく様子もなく、インターフォンでゆらゆらと立っている。
少しして、奥のエレベーターの扉が開き、美桜が飛び出してくるのが見えた。
「神宮寺さん! どうしたんですか?」
「やあ、美桜さん!」
「今日、打ち合わせじゃないですよね?」
「うん、そうなんだけど。たまたま、別の仕事でこの近くに来てたから…。ほら、前に、僕のせいで、嫌な思いをさせちゃったから、体調…、大丈夫かな? って…」
「え、そうなんですか? うわ! ケーキ! これ、絶対に美味しいやつですよね!」
「うん、どうだい? 一緒にお茶でも。たまには良いでしょ?」
「ああ~、ごめんなさい。神宮寺さん。でも、今日、ヒイラギと約束しているんですよね」
「ヒイラギくんと?」
神宮寺さんは「ああ~」と困ったような、ばつの悪そうな声を発した。
僕が期待のようなものを抱いて、二人の会話に耳を傾けていると、頭の中に、女の声が響いた。
『無駄なことですよ』と。
僕はビクッ! と肩を跳ねて振り返った。 だが、そこには誰もいない。
脳内に直接語り掛けられているのか、それとも、あの女に現実を突きつけられ続け、心労した僕が生み出した幻聴か…。頭には女の言葉が響き続けた。
『この運命の所有者が貴方だった場合…、貴方は執筆を続けていく中で出会った、担当編集の女性と結婚します。ですが、運命の所有者は彼女になりました。彼女もまた、出会った担当編集と結ばれる運命にあるのですよ…』
まるで、試すように。まるで、蔑むように、女の声が聞こえた。
「……」
エントランスでは、二人の話し合う声。
「じゃあ、今日は無理かな?」「ああでも、せっかく来てくれたんだし、部屋に上がってくださいよ。ヒイラギも多分大丈夫だと思いますし」「そうかな? 彼も結構プライドがある子だと思うんだけど」
僕は舌打ちをした。スマホを取り出して、美桜にメッセージを送信する。「悪い、用事ができて行けなくなった」と。
メッセージを送信して十秒が経った頃、美桜の声が聞こえた。
「あ! ヒイラギのやつ、なんか用事ができて来れないって言ってます!」
「え、そうなの?」
神宮寺さんの、あからさまに喜ぶ声。美桜は「うーん」と少し悩んだ後、言った。
「せっかくなんで、上がっていってください」
「じゃあ、お邪魔しようかな?」
「はい、新作の件でも、ちょっと悩んでいる展開があるので!」
二人の声が遠ざかる。
僕はもたれていた柱から背中を剥がすと、マンションに背を向けて歩き始めた。
穏やかな平日の路地を、ふらふらと歩く。
天を仰いで「あっはっは!」と、乾いた声をあげた。
何を勘違いしていたんだ?
例え、僕の心の拠り所が彼女だったとしても、彼女はそうでないかもしれないじゃないか。
何を勘違いしていたんだ?
運命は「空虚」なんだ。
そう…、思い込みであっても、僕が報われることは無いのだ。決して。
「あーあ…、畜生め」
僕は美桜が買ってくれたランニングシューズで、道端の石ころを蹴飛ばした。
石ころは地面を跳ねながら飛んでいき、側溝の金網にぶつかって、カツーンッ! と音を立てた。塀の上で昼寝していた猫がびっくりして逃げていく。
「………」
ひゅうっ…と、風が吹き抜けた。暖かいはずなのに、背筋が寒くなる。身体がカタカタと震え…、その場に膝から崩れ落ちた。そして、粘っこい胃酸を吐いた。涙は出なかった。多分、「悲しみ」を「諦め」が追い抜いたからだ。
その瞬間、何もかもどうでも良くなった。
小説家なんてくだらない。
母親なんてくだらない。
恋なんて、くだらない。
「………」
立ち上がると、僕はまた歩き始めた。
頭の中で、「いつ死のうか?」と考え続けていた。




