その②
「今は食べられないの。もうすぐ、打ち合わせに出ていかないといけないから」
「…そうか」僕は素直に頷いた。「一人で大丈夫か? 一緒に行こうか?」
「本当は来てほしいんだけど…、今日は、出版社のお偉いさんとの打ち合わせだから、神宮寺さんに『ヒイラギくんは来ないでほしい』って言われてるの。ごめんね」
「……ああ、そう」
僕は頬を痙攣させながら頷いた。
「もー、不機嫌にならないでよね」美桜が僕の額を小突く。「多分、八時までには戻れると思うから、ケーキはその時に食べようよ。部屋で待ってていいからさ」
「……うん」
僕は頷いた。
美桜はギリギリの時間までパソコンを叩くと、それから、ロングスカートを穿き、ジャケットを羽織ると、最近買ったという新作のショルダーバックを肩に掛けて部屋を出ていった。「じゃあ、お留守番よろしくね」と言い残して。
「ったく」
僕は鎮まり返った部屋でそう言うと、ソファの上にどかっと腰を沈めた。
「もう少しさ、構ってくれてもいいだろ」
日を追うごとに、彼女は多忙を極めていった。特に、この三か月だ。毎日のように、打ち合わせ、サイン会、打ち合わせ、サイン会、編集部との会食、神宮寺さんとのお食事。打ち合わせ、サイン会、打ち合わせ、執筆、執筆、執筆、執筆…。
彼女一人でできることが多くなったために、僕の存在は一層空気になりつつあった。特に、サイン会が酷かった。美桜が「この人は関係者です」と言っても、主催側はちょっと怪訝な顔をした。
まあ、それでもいいや。って思う。
僕の「未来」はもう、失ってしまったけど、代わりに彼女がその「運命」を継承してくれる。毎日、「疲れた!」「しんどい!」と言いながらも、その運命にふさわしい働きを見せてくれる。
それだけで、十分だった。
すごいだろう? 彼女が成功しているのは、僕のおかげなんだぜ。って胸を張って言えることだろう。
美桜が幸せなら、それでいいや。
『幸せですか?』
ソファに座って、テレビをつけようとした時、あの女の声が耳の奥に響いた。




