第八章『しょうもないや』 その①
涙なんて
負け犬の遠吠えさ
新作の発売日。僕は買った小説を脇に抱えて、彼女のマンションを尋ねていた。
「いらっしゃい、ヒイラギ」
「ああ、美桜」
出迎えてくれた美桜の目の下には、黒い隈が浮いていた。
僕は新作の発売と、処女作の映画化を賞賛しながら、彼女の体調を心配した。
「おい、大丈夫なの? ちゃんと睡眠時間確保しているのか?」
「いやあ、無理かな」
美桜は大口を開けて欠伸をすると、ふらふらとしながらキッチンに向かった。
コーヒーを淹れながら、最近の多忙について言う。
「昨日は新作の打ち合わせ…。一昨日は…、映画の打ち合わせ…。その後に、サイン会を二つこなしたわけよ」
「ごめん、付き添えなくて」
「いやあ、いいよ。私一人でも何とかなったし」
美桜はそう言って、また、くあっ…と欠伸をした。
二人分のコーヒーカップを持って、リビングに戻ってくる。
椅子に腰を掛けた僕の前にコーヒーカップを置いた。
「まったく眠れてなくてさ…、でも、他の出版社から、短編の依頼が来ていて…、あと一週間以内に三作品こなさないとダメなの」
「大丈夫? なんか手伝おうか? もちろん、ゴーストライターにならない範囲で」
美桜は「大丈夫~」と間延びした声で言いながら、首を横に振った。
「ヒイラギに無理させられないよ」
「…そうか」
美桜は、もう、「小説の基礎」をその身に刻んでいた。「どうすれば面白いのか」「そうすれば読者の心を揺さぶれるのか」「どうすれば滑らかな文章が書けるのか」。
もう、前のような「小説は書けるけど、小説が書けない」という矛盾した体質の彼女ではないのだ。僕の補助はもう要らなかった。
「そうだ、ケーキを買ってきたんだよ。一緒に食べないか? 新作と映画化のお祝いでさ」
「あ! いいの? ありがとー」
美桜は僕が渡したケーキをありがたく受け取った。だが、すぐに「ごめんね」と言う。
「今は食べられないの。もうすぐ、打ち合わせに出ていかないといけないから」




