その⑩
背中の美桜が、嬉しそうに言った。
「いやあ、楽しかったね」
「…そうかな?」
「最高の一日だったよ! サイン会は成功するし、神宮寺さんに美味しいご飯たべさせてもらえたし、ヒイラギを連れまわせたし!」
「後者に悪意しか感じないんだが」
「また来ようね」
「…そうだな」
「明日は…、大学は?」
「明日は午後からあるよ。まあ、執筆しないといけないから暇じゃないね」
「そうか…。わからないところがあったら、なんでも聞けよな」
「うん、頼りにしてる」
その時、ポケットの中のスマホが震えた。
歩きながら、右手で器用にスマホを取り出し、送られてきたメッセージを確認する。送り主は当然、母さんからだった。「大丈夫ですか? 心配です」というメッセージが入っていた。そこで、腹の奥がすっと寒くなるのを感じた。
そう言えば…、サイン会が終わったら母さんの家に行く約束をしていたのを忘れていた。
思わず、「しまった」と声が洩れる。
「ん? どうしたの?」
「いや、何でもない」
帰ってから返信しようと思っていると、既読に気づいた母さんが、またメッセージを送ってきた。
『次はいつ来られますか? お金が無くて困っています。少しだけ貸してほしいです』
思わず、舌打ちをしていた。
林道美桜がびくっとする。
「え、なに? ごめん、私、何か変なこと言った?」
「いや、何でもない。ごめん」
またぼんやりとごまかすと、スマホをポケットにねじ込んだ。
ふっと、失望と苛立ちの籠った息を吐き、目の前に続く景色を眺める。車通りは少なく、まるで暗闇の中を泳いでいるようだった。
わかるよ。
僕の未来を売って手に入れた金で、母さんは一命を取り留めた。だけど、完治したわけじゃない。だから、苦しいんだ。辛いんだ。一日中布団の中に横になっていたい気持ちもわかる。薬に金がかかるのもわかる。僕の力を借りたいのもわかる。だけど…、だけど、これは…。
「……」
途中休憩を入れながら、ニ十分くらい歩いた。そうして、美桜のマンションに辿り着いた。
「もう、ここで大丈夫だよ。ありがとうね」
美桜がそう言って、僕の背中から降りる。途端に、ふらっとよろめいた。
「大丈夫か? まだ本調子じゃないだろ」
「まあ、あとはエレベーター使って部屋に上がるくらいだし」
彼女は杖を持ち直すと、僕に「行こ」と言って、エントランスの方へと歩いていった。
苦いものと甘いものを混ぜ合わせたような感情が、僕の腹の底で渦巻いていた。
彼女がプレゼントしてくれたシューズを履いて、一歩歩けば至福。一歩歩けば後悔が、石畳の地面に広がっていく。
僕はなにをしている? 何がしたいんだ? 何もわからない。
「ほら、ぼーっとしてないで、泊めてあげないよ?」
振り返ると、微睡んだ夜が、気怠い鳴き声をあげながらそこに横たわっていた。
吸い込まれそうな感覚に身震いしながら、エントランスから洩れる光を浴びる美桜の方を振り返る。
とりあえず、彼女の期待に応えられるように頑張ろう。
そう、なぞるように思った僕は、一歩、また一歩…、次は、怯えた一歩を踏み出した。




