その②
何に対する防衛本能か、僕は紙袋から辞書を引っ張り出すと、顔を隠しながら読むふりをした。ダラダラと頬を汗が伝う。
耳に、林道美桜と神宮寺の声が聞こえる。
「じゃあ、私はこれで」
「大丈夫? 送っていこうか?」
「ありがとうございます。だけど、まだそんな時間じゃないので。神宮寺さんも、戻って別の仕事があるんでしょう?」
「そう、じゃあ、また次の打ち合わせの時にね」
「はい、また今度」
一人分の靴音が遠ざかっていく。
一人分の靴音と、杖をつく音が近づいてくる。
そして、頭上から林道美桜の声が降ってきた。
「…何やってんの?」
僕は観念して、辞書から顔を上げた。
林道美桜が、呆れた顔をして僕を見下ろしていた。
「ねえ、何やってんの? 人の食事の誘いを断っておいて」
「…読書」
「こんな暗くに?」
「いや…、もっと明るかったんだ。気が付いたら暗くなっていた…」
「なにそれ」
「林道こそ、なんで僕だってわかったの?」
「いや、わかるでしょ。ベンチに座って顔を大げさに隠している男なんだから」
「……」
確かに。
林道美桜が僕の骨と皮しかない腕を掴み、無理やり立たせた。
「ほら、帰るよ? 方向同じでしょ?」
「……うん」
僕は右手に、彼女は左手に、昼間の書店でもらった謝礼の紙袋を持って駅に入った。
券売機で切符を買って、駅員さんに見せて、エスカレーターを使ってホームに上がる。
電車を待っている間、僕は林道美桜に聞いた。
「何処に食べに行っていたの?」
「お寿司」
「……」
「流れないやつ!」
林道美桜は上唇をペロッと舐めた。
「ごめん、腐るといけないから、今日はお持ち帰っていないの」
「…いや、いいよ、寿司なんて、生臭くて嫌いだ」
「いやあ、神宮寺さんって、本当にすごい人だね。お美味しいお店知ってるし、かっこいいし、あれで二十八歳だって。よくわからないけど、有名小説を一杯手がけたって言ってた!」
彼女はうろ覚えの小説のタイトルを口にした。いずれも、十万部以上売り上げたものだった。
本来ならば…、神宮寺さんと食事に行ったり、打ち合わせをするのは僕のはずなのに。
傍にあった柱のマイクから、駅員さんの穏やかな声で、「電車が参ります」と流れた。
遅れて、鈍行列車がホームに滑り込んでくる。
二人で乗り込み、ボックス席に向かい合って座った。
一分も経たないうちに扉が閉まり、電車はゆっくりと走り始めた。




