その⑧
「もちろん」
林道美桜は、カクついた笑みを浮かべた。
時間が経てば経つほど、店の前に並ぶ人は多くなった。開店三分前で、ざっと数えて、五十人はいたと思う。急遽、店長が倉庫からカラーコーンを引っ張り出して、列の整理に出ていった。
「じゃあ、そろそろ準備するか」
僕はあのうず高く積まれた本の横にある、長机とパイプ椅子を指した。
林道美桜は、緊張で顔を青くし、こくっと頷いた。
「なんだよ、情けないな。って思う。僕が小説家なら、パイプ咥えて、堂々としてやるさ」
「おっけー、そうすればいいのね」
「うん、やるな」
若干の不安を残しながら、林道美桜初めてのサイン会が始まった。
※
開店と同時に、彼女のサインを求める客がぞろぞろと店内に入ってきた。
皆、林道美桜を見るなり、感激した声をあげていた。「新作読みました」「すごく感動しました」「お会いできて嬉しいです」「ありがとうございます」って。
林道美桜はにこっと笑い、「ありがとうございます」と返すと、彼らが購入した自著に、サラサラっとサインを書く。昨日一日中練習したってのに、文字の大きさや形が様々だった。
次々と客がやってくる。彼女の本を購入し、サインを求める。林道美桜はサインを書く。
延々と続く、その工場の機械のようなやり取りを、僕は彼女の背後に立って眺めていた。あの椅子に座っているのは…、本来は僕なのか。って、くだらないことを考えながら。
三百冊入荷していた小説だったが、大盛況のため、昼前には完売した。まだ並んでいた者たちは肩を落としたが、林道美桜の計らいで、サイン色紙が配られることになった。足りない分の色紙を買いに百均に走ったのは僕だった。
客も僕たちも、満足の結果でイベントは終了した。
店長たちが片づけをしている間、喉が乾いたので、店の外にある自動販売機で水を買って飲んでいた。
まだまだ、緊張から動きが硬かった部分もあったけど、まあ、サイン会なんて、所詮は販売促進のためのものだからな。完璧を求めるものではない。あれくらいが丁度いいくらいだろう。
それに、これから先、彼女はもっと多くのサイン会を経験する。それだけじゃない、授賞式だってあるだろう。人前に出る機会は増える。否応でも慣れるはずさ。
お腹がぐうっと鳴った。
帰りに、林道美桜を誘って何処かに食べに行こうかな?
そう思って、水を飲み干そうとした時だった。
「よお、ヒイラギ」
背後から男が話しかけてきた。




