第二章『空虚な日々』 その①
さよなら幸福
それから、十年が経った。
「ありがとうございましたー」
店員の快活な声に背中を押され、僕はコンビニから出た。買い物袋を腕に引っかけ、脇に挟んだ財布に、さっきのお釣りと、ATMの残高証明を入れる。
昼間は墨汁を広げたみたいに黒かった空だったが、今は子供がめちゃくちゃに塗ったように青かった。サイダーの瓶を傾けたみたいに、入道雲がもくもくと立ち上り、夏の「空の高さ」ってやつを強調している。
湿って黒く染まった路地には、粘っこい湿気が充満し、少し歩くだけで、僕の頬に纏わりついてきた。
僕は買い物袋から、ミネラルウォーターを取り出すと、くいっと傾けた。
ATMの残高は、九十六万だった。家賃、スマホ料金、ガス代、電気代、水道代…、あと生活費で、母さんに渡す分で、あとどれくらいもつだろうか?
そう空を仰いで考えていると、ポケットの中のスマホが震えた。
僕は脱兎のごとき動きでスマホを取り出すと、耳に押し当てた。
「……もしもし」
『あ、もしもし? ヒイラギ?』
「…なんだ、茜さんか」
『なんだとはなんだ。みんなのアイドル茜さんに向かって』
相手は、今住んでいるアパートの隣に住んでいる、「桜木茜」という女性からだった。年齢は教えてくれていないが、二十代後半か、三十代前半。近くの書店に努めていて、よく飲みに誘われる。喋り方や仕草に何処か哀愁がある人だった。
「なんですか? 茜さん?」
『いや、前に借りていた小説、読み終わったから、返そうと思ったんだけど、いなかったから』
「ああ、適当にポストに突っ込んで置いてください」
なんだ、そんなことのために電話してきたのか。
マイクの向こうで、鼻で笑う声がした。
『なに? 感想、聞かないの?』
「聞くまでもないですよ。どうせ、『つまらない駄作』なんだから」僕はそう吐き捨てた。「ってか、駄作だから、捨てておいてください。何なら、チリ紙に使ってもいいですよ」
『なんでそう君はひねくれているのかね』
茜さんのため息。
『面白かったよ』




