その⑪
女が声を潜める。
「いいですか? 何度でも言いますよ? もう、『貴方のものではない』のです。いくら手を伸ばそうとも、いくら望もうとも、あの未来は貴方のものではありません。未来は空白です。何も手に入りません。それなのに、他者のものになった『未来』を、指を咥えて見るのですか? いえ、お気持ちはわかりますよ。未練があるのはわかります。ですが、女性に振られてもなお、追いかける真似をしますか? よほどのロマンティストならそれを『純愛』と呼んでくれるでしょうが…、十人が十人、『ストーカー』と呼びます。今の貴方は、そんなものなのです」
わかりますか?
心に直接語り掛けてきているようだった。
「そういう『運命』なんです。今のままでは、貴方が報われることは無い。心苦しいならば、吹っ切れて、別の道を歩んでいくのが賢明だと思いますがね。今の貴方が、小説家を目指しているのもどうせ、未来に未練があるからでしょう? 大丈夫ですよ。案外、そんな気持ちもすぐに無くなります。きっと、他にやりたいことが見つかるでしょうよ。そう言うのが、大人ってものです」
僕は下唇を噛み締めた。
「ほんと、意地悪だな」
いや、「悪魔」と言うべきか。
女性は「よく言われます」と言った。
「まあでも…、貴方の力が、林道美桜様に必要なのはわかります」
女は唇に指を当てて、声を潜めながら聞いてきた。
「肥満気味で、スポーツとは無縁の人間が…、『オリンピックで金メダルを取る』という未来を購入したら、どうなると思いますか? はい…、もちろん、メダルを取ることができます。ですが…、勝ち進むための過度なトレーニング、周りの期待に耐えることができず、精神の方に支障を来してしまうんです。林道美桜さんもそうなのでしょうね。彼女は小説を『何故か』書くことができても…、周りの評価に耐える精神は持ち合わせていません」
にこっと笑った。
「バトル漫画風に言えば、『新しく手に入れた強力な力を使いこなすために、肉体も鍛えなければならない』ということです」
女は肩を竦めた。
「私にはわかりませんよ。貴方の干渉で、林道美桜様の運命がどう変わるのか…」
風もないのに、女の黒マントが、ゆらっと揺れた。
霧が立ち込めるかのように、部屋の薄暗さに拍車がかかる。
女はぼんやりとした声で言った。
「私は全知全能ではありませんから。神様でも、天使でも…、ましてや悪魔でもない…、ただの、『未来の売買人』ですから」
そして、女は空気に溶け込むようにして消えた。
部屋には、うっすらとバラの匂いが残っていた。その香りに混ざって、あの女が僕に言った、「今の貴方が小説家を目指しているのもどうせ、未来に未練があるからでしょう?」という言葉が、尻尾を追いあう子猫のように、ぐるぐると頭の上で回っていた。




