その⑤
その日は、終電の時間が近づくまで、林道美桜に「帰納法と演繹法の違い」についてレクチャーした。ついでに、「起承転結」について、読売新聞のコボちゃんを例に上げて説明した。こんなの、小説を書く者なら知っていて当然のはずだったが、彼女は目を輝かせて…じゃなくて、常に吐きそうな顔をして聞いていた。
「そんなに嫌いなの? これ、小説と言うか、国語なんだけど」
「大っ嫌い」林道美桜は言い切ってしまった。「国語なんて、この世から消えてしまえばいいのよ」
「って、お前、文系の大学に通っていなかったか?」
「ええ、通っていますとも。悪い?」
「いや悪くないけど…」
林道美桜はソファにどしっと腰をうずめると、細い脚を投げだしてパタパタと振った。髪の毛がぱさりと揺れ、香水のフルーティーな香りが鼻を掠める。
「本当は…、他にいきたい大学があったよ。だけど、この未来を買ってしまった以上、これから待ち受ける運命に見合ったことをしなければならなかったの。スポーツ系の大学にいった奴が小説家になったらどう思う?」
「いや…、『すごいな』って思う」
喉から手が出る程小説家になりたい僕としては、どんな状態から作家デビューしても、羨望のまなざしの対象だった。
望んでいた答えではなく、林道美桜が舌打ちをする。
「へえ! 意外! って思われるのよ。これ、『経験者は語る』ってやつね」
そう天井を仰いで言い切り彼女の学生時代が透けて見えるようだった。
「全く違う分野から小説家になるのも、悪くないと思うけどな…。ほら、アイドルで小説家になる人だっているじゃないか。その方が、話題性があって本も売れると思う」
「馬鹿ねぇ、ああいうのは、ファンが買って過大評価されているだけよ。それこそ、『見抜ける人は見抜ける』よ。そういう、色眼鏡なしに正当な判断を受けたいわけよ。私はね」
髪をクシャッとかき上げる林道美桜。
「『天才』よりも『努力』の方が褒め言葉よ。文系の大学に進学したのは、『ああ、文系の大学に通っているだけあって、素晴らしい作品が書けるんだね』って思われるから。実際、大学側も、私の顔を使って、新入生を募ろうとしている」
確かに、この前見た時、大学前に大々的に林道美桜の名前が掲げられていたな。
「…わからないな。林道の見栄が、僕には理解できない」
「未来を売ってすっからかんになった男にわかってたまるかっての」林道はそう吐き捨てた。「未来を買ったらね…、常にそういう『目』と付き合うってことなのよ」
「……」
そんなに嫌なら、どうして未来なんて買ったんだ?
その言葉がふたたび喉の奥に湧き上がったが、また飲み込んだ。
「ほら、そろそろ終電でしょ? もう用なしだから、帰ってどうぞ」
林道美桜は傍にあったクッションを掴み、僕に投げつけた。
クッションを受け止めた僕は、それを彼女に投げ返す。




