その⑫
女はにやっと笑って僕の名前を呼んだ。
マラソンを走った後のように、心臓がバクバクと高鳴り、背中や脇、額から冷や汗がどっと吹き出した。足ががくがくと震え、逃げ出すこともできずその場に片膝をつく。胃の奥で先ほど呑んだり食ったりしたものが暴れて食道を逆流し、石畳の上に吐き出された。
「な、なんで…、なんで、ここに…」
僕は口から粘っこい唾液を引きながら女を見上げた。
女は「大丈夫ですか?」となぞるように言いながら、僕に恭しく頭を下げた。
「貴方の様子を見に来たのですよ」
ふわっと、ラズベリーのような香りが鼻を掠めた。
「貴方は私に、貴重で貴重で…、貴重な『未来』を売ってくださった、お得意様ですからね…」
頭上の外灯が、ジジッ! と音を立てて点滅した。
女は笑ったまま続けた。
「十年前は、どうもありがとうございます。私に『未来』を売ってくださって」
長い前髪の間から、金色の瞳がこちらを覗き、妖艶に輝いた。
「どうですか? 幸せになれましたか? 小学生の身に余る大金を手に入れ…、大好きなお母様を救い…、幸せですか…?」
女の撫でるような声を聞いていると、不快感はやがて「怒り」に変わった。
僕は口元の唾液を拭い、脚の震えを抑えて立ち上がり、女を睨んだ。
女は笑っている。「幸せですか?」と聞いてきたくせして、全てを知っているって感じの様子だった。そりゃそうか、コイツは、人の「人生」というやつがわかるのだから。それを知ったうえで、僕たちに「未来売買」の交渉を持ちかけてくるのだから。
「これは失礼しました。どうやら…、現状に満足できていないようですね…」
次の瞬間、僕は地面を蹴り、低い姿勢から女に襲い掛かっていた。
しかし、僕のタックルは空を切る。
勢い余って、僕は石畳の上に腹を擦り付けながら倒れこんだ。
すり抜けた?
何が起こったのかわからず、腹に広がる鈍い痛みに悶えていると、女が僕の目の前に立った。まだ笑っていた。髪が、マントが、風に揺れていた。
「どうして、怒っているのですか?」
どうして僕が怒っているのか、知った風に言った。
僕は顔を上げて怒鳴った。
「てめえが! あの時現れなければ! あの時! 僕の『未来』を買い取らなければ! こんな! こんなことには! ならなかったんだ!」
「あら…? でも、お母様を助けたいとおっしゃったのは、貴方ですよ?」
「ああ! 助けたかったよ! だけど! あんな親だったんだ! 屑親だった! 金に胡坐をかいて何もしない! 馬鹿な親だった! 助けるんじゃなかった! お前が現れなければ! 僕は諦めていたんだ! それでよかったんだ! てめえが、てめえが僕を唆したばっかりに…! あのまま母さんは死んでいたのに…!」
唆した…。その言葉に、女の口がぴくっと動いた。そして、すぐにまたニヤッと笑った。
女はマントを折り込みながらしゃがむと、僕と視線を合わせた。
吐しゃ物でべとべとになった僕の頬を、冷たい手で撫でる。
「『せどり』って言葉を、知っていますか?」




