その⑧
男は、怒りの籠った声で言った。
「何処で買ったんだ?」
「え、ええ?」
僕はへらっと笑いながら、首を傾げる?
「何のことですか?」
その時、初めて男の顔を見た。
年齢は四十…、いや、五十前半か? 目の下の隈や、頬のゴルゴ線、開いた毛穴など、若干疲れた雰囲気を醸し出しているが、肩幅はがっちりとして背丈も高い。つんと張ったスーツから、胸筋があるようにも思える。
「あの…、だから、なんの」
そう言いかけた瞬間、男の拳が飛んできて、僕の右頬を撃ち抜いた。
バチンッ! と、視界が暗転する、頭上で劈くような悲鳴が聞こえたかと思うと、まるで宙に放り出されたかのような浮遊感が足元から頭の先を駆け抜けた。「がふっ!」と、間抜けな呻き声をあげながら、冷たい床に倒れこむ。
顔をあげて、目を見開いた瞬間、スーツ姿の男が鬼のような形相で迫ってきて、僕の上に馬乗りになった。
「お前のせいで!」
男がふたたび拳を振り上げる。その瞬間、月山さんを始めとした、イベントスタッフらが男に飛び掛かり、僕から男を引き上がした。
男は両手足をばたつかせ、「お前のせいで!」「オレの娘は!」と、叫んでいた。
男の暴力により、楽し気なイベントは一転、冷たい雰囲気に包まれた。後に並んでいた者たちは青ざめ、「なにあれ?」「やばいんじゃない?」と言い合いながら、ステージの上で暴れる男を見ていた。中には、スマホのカメラを向ける者もいた。
「く…そ…」
僕はじんじんと痛む頬を拭いながら身体を起こした。若干顎にも衝撃が走ったのか、眩暈がする。
「ヒイラギ先生!」
月山さんが駆け寄ってきて、僕を支えた。
「だ、だ、大丈夫ですか? い、痛くないですか?」
「うん、痛いね」
僕は舌打ち交じりに言うと、押さえつけられて暴れている男を見た。
「何処で買った? お前のせいで! オレの娘は!」
「……」
ああ、そうか。
そう思うと同時に、背後に、未来売買人の女が立ち、僕の耳にだけ響くような声で言った。。
『察しのいい貴方ならわかると思いますが…、あれは、林道美桜様のお父上です』
「…だろうな」
全く似てないけど、何となくそう思った。勘ってやつだろうか?
「てめえさ…、もう少し『守秘義務』ってやつを持った方がいいんじゃないか? 商売人として失格だろ」
『いいえ。人の『未来』には、感情の起伏が必要になります。こうやって、人を怒らせ、悲しませ、幸せにして、運命を生み出すことこそが、商売人の心構えだと思いますがね』
「客からしたらいい迷惑だ」
突然独り言を喋り始めた僕に、月山さんは泣きそうな顔で困惑していた。
「え、先生、殴られて頭おかしくなっちゃいましたか?」
僕以外に見えていない、未来売買人の女は笑みを含んだ声で言った。
『あの男は、美桜様の御父様。つまり…、最初に、彼女に『未来』を買い与えた人です。わかりますか? 御父様がどうして、娘様に未来を買い与えたのか? はい、そうです。自尊心ですよ』
…そうだろうな。ってか、美桜の手紙にも書いてあったし。
『大枚をはたいて、娘に自分の自尊心を満たす未来を買い与えたのです。最初は、鼻が高かったでしょうね。「林道の娘さん、小説家になったんですって。すごいです」、「やっぱり、親が優秀だと子供も優秀なのですね」って具合に』
女は、まるで実際に見たり聞いたりしたように語った。
『それなのに…、実の娘が、せっかく買ってやった未来を、どこの馬の骨かもわからない男に譲ったんですからね…、怒るのも無理はありません』
「ああ…、そうだな」
僕は月山さんの肩を借りると、震える脚に力を込めて立ち上がった。
暴れている男に近づく。
他のスタッフが「先生! 危ないから下がって!」と言ったが、無視して、男と視線を合わせた。
美桜の父親は、涎をダラダラと垂らしながら、獣のような目で僕を見上げた。
「貴様…! よくも、オレの娘から『未来』を取り上げてくれたな…!」
好都合だと思った。
僕は男に顔を寄せ、小声で言った。
「おい、美桜は今、何処にいる?」
僕の口から娘の名前が出たことで、僕が「娘の未来を奪った男」と確信した男は、さらに顔を真っ赤にして叫んだ。
「やっぱりお前か! よくも! よくも! よくも美桜を!」
「よくも…? なんだ? 美桜に何かあったのか?」
「誰がお前に…!」
次の瞬間、僕は男の顎を蹴り飛ばしていた。
自分の自尊心のために、娘の運命を勝手に弄る男だ。後悔はない。
ガツンッ! と、歯と歯がぶつかり合う音と重なって、男が呻く。唾が飛び散り、床に落ちた。周りが息を呑むのがわかった。
それでも構わず、僕は震える男の胸ぐらを掴み、言った。
「言えよッ!」
揺さぶる。
「おい! 言えよ! てめえ! 自分の娘のことだろうが! おい! オレに殴りかかる暇があるんだったら、オレをさっさと美桜のところに案内しろや! おい!」
揺さぶる。
月山さんが「先生!」と言う声で、我に返った。
見れば、男は口から泡を吹いて気絶していた。




