その⑥
美桜はこの世界に存在しない。
そう思っていながら、僕は執筆の間を縫って町に駆り出すと、彼女の面影を探した。彼女が行きつけにしていた喫茶店。彼女が好んで歩いていた散歩コース。スポーツ店、ショッピングモール…、映画館、大学、高校、中学、小学校。ここまでくるともう不審者だな。
それはギプスが外れても続いた。月山さんが心配して付き添ってくれた。
梅雨が明けた頃、その日も美桜の黒髪の毛先も見つけることができず、僕は「またか」と思いながらアパートに戻った。五時間ほど執筆を続け、日付が変わるころに、机に向かったまま眠った。目が覚めると、もう朝の八時で、ベランダで雀が鳴いていた。
「……」
ふと、雀は幸せなのだろうか? って思う。
鴉が蔓延る世界に産み落とされて、その日の羽虫を捕って喰う日々が幸せなのだろうか?
僕は…、幸せなのかな?
そう考えた瞬間、部屋の扉が開いて、おなじみスーツ姿の月山さんが入ってきた。
「おはようございます! 先生!」
「……おはよう」
「朝から執筆ですか? 流石です!」
「いや、机の上で寝落ちしてた」
「それはいけない! ちゃんと布団で眠りましょう! 先生は売れっ子作家ですから!」
「ああ、そう…」
月山さんは、靴を脱いで部屋に上がった。了承を得るわけでもなく、「ゴミ捨てておきますね」「掃除機掛けておきますね」「お皿、洗っておきますね」と、てきぱきと掃除を始める。
「いや、それ編集者の仕事じゃないだろ」
「いえ、作家さんに気持ちよく執筆してもらうためですから!」
月山さんは僕の方を振り返って、にこっと笑ってそう言った。
月山さんがやってきたとき、部屋にはお日様の香りが漂っている。落ち着く香りだ。まるで、柔らかい布団に抱きしめられているようだった。
でも、美桜の香りのほうが好きだと思った。
「ああ、そうだ!」
部屋の片づけをしながら、月山さんが言った。
「さっき上から聞いた話なんですけど、新作の発行部数が、そろそろ五十万部超えるみたいですよ」
「…ああ、そう」
「嬉しくないんですか?」
「嬉しいよ」
特に、三作品目は、未来が戻ってきてから書いたものだから、正真正銘、純度一〇〇パーセント僕の作品と言えた。それが、そんなにも売れたんだ。嬉しいよ。
だけど…、美桜がいないと、手放しには喜べないと思った。
「いやあ、売れっ子じゃないですか! 印税もバンバン入ってきますよ!」
「……うん」
僕の曖昧な返事に何を思ったのか、月山さんは大げさな声をあげた。
「いつまで、こんな狭いアパートに住んでいるんですかあ? 先生はブイブイいっているんですから、もっと豪華な部屋に住んじゃいましょうよ!」
「…ああ、うん」曖昧な返事「そうだね…、そろそろ、引っ越したいね…」
でも、引っ越ししてしまったら…、美桜が僕を見つけられないんじゃないか?
そう思い浮かんだ考えがどれだけ愚かしいことなのか、一瞬で理解した。肩を落として、深いため息をつく。馬鹿じゃねえのって思う。
魂が抜けたようになっている僕の背後で、月山さんが震えた声をあげた。
「よ、よ、よ、よろしければ…、その…、し、私生活の方も、お手伝いしても構いませんでしょうか…?」
「…え、あ、ああ?」
首だけで振り返って、月山さんの方を見た。
彼女はゆでだこみたいに顔を赤くしていた。
そうか…。って、独り合点する。
あの女が言っていたことだ。これからの未来、僕は担当編集の女性と結婚して、子供を二人作って、仲睦まじく、幸せな日々を送るって…。
すげえな、ちゃんと、運命通りに動いているのか…。
「ごめん」
僕は声の調子を抑えて言った。
「月山さん…、あんたは優しい人だよ。一緒にいてわかった。僕はそういう人が大好きなんだ。だけど…、私生活は…、まだよくわからない」
「あ、やっぱり、そうですよね」
月山さんは風船が萎むように頷いた。
「すみません、唐突に…」
「いや、嬉しかったよ。ありがとう」
拒否した。運命に抗ってやった。ざまあみろ。
そう思っていられるのは今のうちで、実は、これも二人の愛を深めるために障壁ではないだろうか? と、運命の「結果に進もうとする性質」を疑った。
変な空気を振り払うように、月山さんが元気よく言った。
「そ、そうだ! い、イベントの話をしに来たんですよ!」
「……」
「今度、実写映画公開に先駆けて、東京の方でイベントがありまして…、主催者側が、是非先生に出て欲しいって!」
「ああ、うん」
僕は二つ返事で頷いた。
「いいよ」
「はい、そう言ってくれると思っていました!」




