一章 その6
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学校という場所は、一つの異界なのだと思う。
僕らが暮らす日常の一部でありながら、ある種特殊な規律と空気に縛られた空間。
共有する常識も、共同体としての価値観も、何もかもが異質な箱に僕らは日々閉じ込められている。
治外法権であり。
隔絶空間であり。
それでも確かに、自宅や近所のスーパーと地続きの所にある。
圧倒的に違うはずなのに、同じ地平に存在する不思議な場所。
子供の世界、なんて言ってしまえば、たぶん、「そんなに自由じゃないよ」と反論されるに違いないが、それでもこれは僕らにとって世界のすべてだ。
社会を社会として認識できる最小単位の世界だ。
秩序と道徳に幾重にも縛られていて、それを破れば、僕らはその世界から永遠に追放されてしまう。
村八分は、間違いようもなく恐怖だ。
ならば、この背後に感じる寒気もきっと――当然のものなのだろう。
「……なんてな。学校の怪談じゃないんだから」
呟いた声が、どこまでも遠く響いていく。
夜中の十時。月明かりで青白く輝く廊下を歩きながら、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
因幡から「保健室前の小窓は施錠されていない」と聞いたのはいつだったか。
ともあれ、どうにか人ひとりが体をねじ込めそうなくらいの小さな窓は、問題なく開くことができた。
つまるところが、立派な不法侵入である。
道中、下駄箱に寄ったので僕は両足にはいつもの薄汚れた上履きを履いている。
律儀に取りに行くのもどうかとは思ったが、夏でもリノリウムの床はそこそこに冷たく、それ以上に、固い。
まあ、そんな言い訳をするつもりはないのだが、なんとなくここを歩くのならば、これを履いていなければならない、そんな気がしたのだ。
だから、僕は今も靴を鳴らしながら無人の校舎を往く。
よく考えれば、忍び込んでいるのだから足音が鳴らない方がいいに決まっているのだが、そういう意味で、僕の判断力は低下していたのだろう。
そのくらいに、誰もいない学校はひどく不気味だった。オバケを信じる歳ではないが、それでもこの雰囲気はそう簡単に飲み込めるものではない。
空っぽの教室。
靴音が遠く延びてく廊下。
窓から覗けば向かいの棟や校庭までが見渡せるかもしれないが、そうする勇気はなかった。
それでも、教室くらいには視線を向けられる。
扉越しの教室には、もちろん誰もいない。がらんどうの四方形は、普段よりずいぶんと広く見えた。
平時はあれだけの生徒が詰め込まれているのだから、当然なのだろう。
夜の学校は、普段よりどこか冷たくなったような印象を受けた。
確か、『人には気配がある。そしてそれは確かな質量を持っていて、私たちが普段感じている空気だとか雰囲気の肌触りにも関わるんだよ』と、以前に伊予が言っていた。
なら、僕が今感じているのは気配の有無による温度差で、決して錯覚などではないのかもしれない。
一人きりはひどく寒い。
それでも、熱帯夜ではあるのだが。
「……まあ、そんなことはどうでもいいんだ」
呟いて、歩調を早める。あまり長居はしたくなかった。警備会社のセンサーは設置場所を知っているし、宿直の先生がいるわけでもない。
忍び込んだことに対する背徳感と、背後に迫る漠然とした恐怖に追いたてられていたのだ。
見つかる相手もいないだろうが、もしもということもある。とっとと、ノートを回収して帰ろう。
そう思い、階段に足をかけて――。
――上から響いてくる、足音を聞いた。
「……………………っ!」
血の気が引いた。
肌の表面を冷たい感覚が這っていく。
まさか、が何度も頭の中で渦巻いて、思考がマーブルに濁る。一時的に増大した心拍が、胸の中でうるさいくらいに暴れている。
誰だ。部活動の生徒も教師も、事務員だってみんな帰ったはずである。
こんな時間に残っている人間がいるなんて。
もしかして、僕と同じように忘れ物を取りに来た者がいるのだろうか。
だとすれば恐れることもないが、何かの間違いで教師なんかがいたら面倒だ。
ともかく、音を発てないように気を付けながら、そろりそろりと一段ずつ上がっていく。
月明かりの差さないこの場所は一歩か二歩先しか見えないくらい真っ暗で、何度も躓きそうになった。
踊り場まで来た辺りで、もう一度耳を澄ます。静寂。しかし、気を抜くことはできない。
暗闇がねっとりと重くなる。頬を伝う汗は、たぶん、暑さのせいだけではない。
浅くなる呼吸を落ち着かせながら、僕は登段を再開する。
緊張が、心と体を解離させる。地に足がつかないとはこういうことなのか。
気持ちの悪い浮遊感を足裏で潰すように最後の一段を踏み越えて、僕は二階に降り立った。
防火扉に背をつけて、廊下の様子を伺う。人影はない。
当然、足音もしない。しばらくそのまま待ってみても――気配すらしなかった。
どうやら、もう行ってしまったらしい。安堵とともに、肺に圧迫感を覚える。
息を吐くのを忘れていた。過呼吸になる寸前だったのかもしれない。
まずは落ち着いて、呼吸を整える。何度も吸って、吐いて。
心拍が平時のそれに戻ったのを見計らって歩き出した。
僕の教室――二年六組はこの廊下の、丁度突き当たりにある。
扉は施錠されているだろうが、その上にある窓の鍵はかかっていないはずだ。
足音を殺しながら、僕はゆっくりと直線を行く。ふと窓の外に目をやると、僕が入ってきた保険室前の廊下が見えた。
もし他に侵入者がいるとするなら、あの場所以外に忍び込める所があるのだろうか?
「どうなってるんだよ、ここのセキュリティ……」
その穴を突いている身としては、責めることなどできようもないが。
念のため、と、手近な教室の中に目を通した。ドア越しに見る限りでは人影は見つからない。
隣の五組も同じ。杞憂だったのかもしれないなと、一応目的の二年六組の中も覗き込む。
「………………っ!」
――もう一人の侵入者が、そこにいた。
その人物は教室の真ん中――誰の席だったかは覚えていない――に腰かけている。
長い髪を真ん中で分けた女子生徒。顔はここからではよく見えない。
見つかった。とか、いた、とかそんなことは考えなかった。
何故なら、その侵入者は僕なんて見ていなかった。どころか、なにも見ていなかったのかもしれない。
ぐったりと首を曲げて、ピクリとも動かなかったのだ。
「……なんだよ、あれ」
まるで。
幽霊とか。
そうでなければ。
僕は頭をぶんぶんと振って、余計な思考を追い出した。
確かめなくては、と、反射的に扉に手をかける。
しかし、そんなことをしても仕方がないのだ。
教室の扉は下校時間が過ぎると施錠される。だから、入りたいのなら窓から――。
「…………え?」
なんて、考える僕を嘲笑うように。
ガラガラと音を発てて、扉は開いた。
いつものように。もしかすると、いつもより軽い手応えで。
横開きの扉は口を開けた。僕とあれの世界が繋がる。何も遮るものがなく、手を伸ばせば届く。
しかし、座る影はそれでも動かない。ただ俯いたまま、微動だにせずにそこにあるだけだ。
嫌な想像が膨らんでいく。でも、どうしてだ?
仮に"そう"だとして、どうしてここにそんなものがいる? どうしてここに、そんな"もの"がある?
疑問符は振り払えど、振り払えども増えていく。
どうして。なぜ。パニックになりかけた僕と真逆に、足は教室の中に入ろうとしていた。
まるで、引き寄せられるように。
目の前のそれが、僕を呼んでいるかのように――。
「やめておきなさい。死にたくないならね」
その声は囁くように、僕の背後から聞こえた。
自然、足が止まる。と同時に全身から汗が噴き出した。
声が出ない。驚きとか、そんなものはもうとっくに振り切ってしまっていた。
だから、僕が息を吸い込む細い音だけが、まるで笛のようにシャープに響く。
いつから、後ろに?
気づかなかった。
気を抜いてしまったとはいえ、これだけ静かな場所なら人の気配には気づけるはずだ。
「……いい? もう一度言うわ。死にたくなかったら、ゆっくりと引き返すの。その中には入っちゃダメ」
僕は声に籠った奇妙な迫力には逆らえず、とにかく言う通りにした。
ゆっくり、ゆっくりと後ずさる。疑問は全部後回しだ。
引きずられるように僕が反対の壁までたどり着くか着かないかの辺りで、強く引っ張られる。
勢いのまま、僕は背中を強かに打ち付けた。
困惑と痛みが一対一で押し寄せて、背骨が痺れるような感覚があった。
肺から一気に空気が抜ける。カラカラの口で息をしようとするが、うまく呼吸ができない。
声の主は、そんな僕の窮状を知ってか知らずか、涼しげな声色で語りかけてくる。
「あなた、こんな時間に何しているの? とっくの昔に、下校時間は過ぎているのよ」
そう、屈み込みながら口にした、その姿に。
「……っ! あんたは……」
僕は、見覚えがあった。
まず目を奪われたのは、大きな瞳だった。
どこか捕食者を思わせる鋭さを持った双眸が、穏やかな赤い光をたたえている。
白磁のような肌は暗闇に輝くようにして浮かんでおり、美しい貌をより鮮明に際立たせているようだった。
そして、なにより。その夜に溶ける綺麗な黒髪が、忘れようにも忘れられない、印象的な雰囲気を放っている。
「……山城先輩、ですよね?」
僕は何とか、それだけを絞り出した。
これだけ静かな空間なのに、僕の声は驚くほどに通りが悪い。
けれど、なんとか彼女には聞こえたようであり、意外そうに目を見開いたのがわかった。
「あら、誰かと思えば、もしかしてこの教室でこの間すれ違った子だったかしら」
「ええ、覚えていただけて光栄ですよ、山城先輩」
僕はゆっくりと立ち上がる。
したたかに打ち付けた腰の辺りの骨が、じんじんと疼くように痛んでいた。
「それで、あなたはどうしてこんな時間に学校に来ているの?」
「どうして、って、忘れ物を取りに来たんですよ。明日提出のノートを、自分の机に置いてきちまったんでね」
「そう、なら、諦めた方がいいわね。今この教室に入るのは、おすすめできないわ」
僕は思わず首を捻った。
先ほどもそうだが、何故先輩は教室に入ろうとする僕を止めてくるのだろうか。
ここから見る分には、椅子に腰掛けた不気味に俯いた人影以外にはおかしなものはない。
確かにあれに近付くのは気が進まないが、教室の端を通ってサッと行ってくれば大丈夫ではないだろうか?
そう考え、何気なく、ドアの方に視線をやった――。
――途端、暗闇から腕が伸びてきた。
「――ッ!!」
跳ねる心臓。突然の事態に、僕は縺れる足を無理やりに動かして、身を翻そうとした。
しかし、その瞬間。
一瞬、体が重くなるような感覚があった。
まるで鉛のベストを着せられたかのように、両肩に乗った重みが、僅かに動きを鈍らせた。
このままでは、掴まれる――そう思考すると同時に、肩の辺りに衝撃が走った。
先輩が僕を突き飛ばしたのだ、そう自覚するよりも早く、僕は地面に転がった。
「くっ……そ……なんなんだよ……」
呻きながら顔を上げた僕は、教室から這い出してきた『それ』の姿を目にした。
『それ』は、フードを被った人間のように見えた。
顔は暗がりになってしまい見えないし、体格もこの距離では判然としない。
ただ、それでも――身を突き刺すような殺意は、はっきりと感じ取れた。
居竦む僕の腕が、途端に強く引っ張られる。
「――走って。死にたくなければついてきなさい」
そう言って、先輩は僕の手を取って走り出した。
彼女のスラリと長い脚が地面を蹴る度、僕らはぐんぐんと加速していく。
「――――!!!!!」
背後から、咆哮が聞こえた。
それはどこかで聞き覚えのある声のようにも錯覚したが、静かな校舎に響いて割れて戦慄いて。裂けては崩れて、最早、人間の声帯が出せる音には聞こえなかった。
ダン、と音を発てて人影が駆ける。
不気味に、前のめりに。窓や天井、ロッカー。
飛び移りながら、まるで、重力など介在しないかのような三次元的な動きでこちらを追い詰めんとしてくる。
その光景は、見ているだけで怖気を走らせるような、現実離れしたものだった。
「ちょっ、何だよ、あれ――」
「――黙りなさい、舌を噛んでも知らないわよ」
そう言うと、先輩は階段をほとんど全て飛ばすような勢いで降り始めた。
必然、手を繋いだ僕もそれに続くが、間に合わず、一歩間違えばそのまま転げ落ちてしまいそうだった。
流れる景色。
校舎に幾度も響く、慌ただしい足音。
脳味噌がまだ追い付いてきていない。何が起こっているのか、どうしてこうなっているのか。
絶え間ない困惑の中で、ただ、目の前を走っている細い背中を追いかけることしかできない。
「……埒が開かないわね。それなら、こっちよ」
階段を下りてすぐの辺りで、またしても強く腕を引かれた。
関節が外れそうになりながら、僕はどうにかその後に続いていく。
先輩が飛び込んだのは、図書室だった。
県内の高校の中でも、うちの高校の図書室はとりわけ小さくて、正直ショボい。
本棚が数列あるばかりであり、作りも別段、入り組んでいるわけではない。
月明かり以外の光源が無いとはいえ、隠れる場所など無いのではないかと心配になった僕を尻目に、先輩は軽々とした様子でカウンターを飛び越えた。
そして、そのすぐ裏にある扉に手を掛ける。
入学から一度も脚を踏み入れたことのない、図書準備室だ。
乱暴に扉を開けた彼女は、そのまま鞄でも放るようにして僕の手を離した。
自然、勢いに逆らうこともできないまま、僕は六畳ほどの狭い部屋の中に放り込まれる。
驚くほど軽く投げ出された体は、アルミ製の棚にぶつかり、ようやく止まった。
胸の奥からせり上がってきた空気の粒が、僕を何度も咳き込ませる。
今日はよく投げ飛ばされる日だ、なんて、冗談を言う余裕もなく。
喘ぐようにして息を吸う僕の頭上から、声が降ってきた。
「……ここまで来れば、ひと安心かしら」
先輩はそう口にして、しばらく扉に耳を当てていた。
そして、そのたおやかな五指で用心深く、音を発てないように鍵をかけた。
瞬間、緊張の糸が切れる感覚があった。
何だかよくわからないが、助かったのだ。まるっきり現状は飲み込めていないが、どうにか命は拾えた。
「……あの、山城、先輩……?」
僕はそこで、先輩の顔を覗き込んだ。
乱暴な方法だったが、どうしてか先輩は僕を助けてくれた。
ならば、礼を言わなければならないだろうという、安直な考えだった。
「何かしら? 不法侵入者さん」彼女は振り返りもせずに口にする。
「あ、いや、なんというか……助けてくれてありがとうございます。あれは、一体……?」
喋りながら、僕の胸の中には、今日後輩から聞いた言葉が過っていた。
『――実は山城先輩は、"あの事件"に関わってるらしいんですよぅ』
教室で先ほど見たものが"そう"であるとするのなら。
彼女があの場所にいた理由は、もしかして――。
「……そう。もう無関係ではないのだし、話しておく必要があるわね」
山城先輩はどこか諦めたような調子で首を振った。
そして、僅かに屈んで、その赤く光る光彩で僕の目を貫く。
「あなた、名前は何て言うの?」
「……信濃。信濃、一樹っす」
「そう、信濃くん。ここだと落ち着いて話もできないだろうし、場所を移しましょうか」
そう言って、彼女は僕に手を差しのべてきた。
触れた肌は異様なまでに冷たく、けれど、少女特有の嫋やかさと柔らかさを強く感じさせる、綺麗な手だった。
力を込め、支えられるようにして立ち上がる。
ぐん、と引かれる力につんのめりながら立ち上がれば、鼻先には軽やかな柑橘系の香り。
「それじゃあ、改めて。私は山城綾奈。ただの高校三年生。そして今から君に話すのは――」
彼女は窓を背負って立っていた。カーテンすら引かれていないそこには、木々の隙間から見える満月が青白い光を落としていた。
月光にその髪を煌めかせながら、山城先輩はゆっくりと、その薄い唇を開いたのだった。
「――私たちの青春を蝕む、ひとつの"病"のお話よ」