一章 その5
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『その子はきっと、誰かを探していた訳じゃなかったんだと思うよ』
夕飯の席にて、ドレッシングもかかっていない生のレタスを口一杯に詰めながら、同居人の伊予は、手に持った端末を僕の方に突き出してきた。
僕の家庭はほんの少しだけ、複雑な事情を抱えている。親は訳あって家を空けており、伊予は僕の保護者がわりとしてこの家で暮らしているのだ。
病的なまでに白い肌、色素を失った髪は足元に着きそうなほどに長く、輝きを失くした赤い瞳はどこを見るとも判ぜない。
体の弱い彼女は家の外に出ることもできない。だからどこか、無菌室を思わせる潔癖さを帯びている。
まるで枝のように細い手足と、僕の胸元までしかない身長から、まるで年端もいかぬ少女のようにも見えるが、これでも成人しているらしい。
「探してなかった? それって、どういうことだよ」
僕は手に持った椀から白米を掬い上げながら、彼女に問いかけた。
伊予はフォークを置いて、手元の端末に文字を打ち込む。
失語症の彼女とは、こうしなければコミュニケーションが取れないのだ。
『うん、そう。その子はきっと、自分を探しにきてくれる誰かを待っていたんだ』
「……わざわざ、下級生のクラスにまで来てたのにか?」
『そうだろうね』細い指先が、ぱたぱたと動く。
『だって、君が入るまで教室は無人だったんでしょ?』
伊予の言葉を文字で追いながら、僕は思わず目を見開いた。
確かに、言われてみればそうだ。
教室に誰もいないことなど、外から覗き見ればわかったはずだ。
それでも、彼女は確かにあの場所に佇んでいた。そこに理由があるとするのなら。
「なるほどな、納得したよ。先輩はあそこで、誰かと待ち合わせをしていたんだな?」
僕の言葉に、伊予は返答を寄越さなかった。
その代わりに、哀れむような笑みを浮かべながら肩を竦めてみせた。
なんだか、腹立たしい仕草だった。
「……なんだよ、伊予だって待ってたって言ったじゃないか。まさか、来るかもわからない誰かを待ち続けてた訳じゃないだろうに」
『そのまさかなんじゃないかな。だから、来たのが君であることに落胆したんだ』
「……そんなこと言われたって、僕だって日直の仕事をしてたんだし、気を遣って入らない訳にもいかなかったからな……」
『私は何も言ってないよ、そもそも喋れないからね』
彼女はとぼけたような様子でそうとだけ打ち込むと、皿に残ったレタスを、サクサクと音を発てながら突き刺していく。
虚弱体質の彼女は、食べられるものが限られてしまうのだ。
動物性のものはまるっきりダメ。そのため、いつも味付けもしない生野菜を口にしている。
彼女は三枚ほどまとめてレタスを貫いたフォークを僕の方に向け、小さく笑みを浮かべた。
『でも、その子には同情するなあ。待っているのに誰も来ないのは、ひどく辛いことだからね』
「待つのも楽しみ、だったりするんじゃないか?」
『来るとわかっていればね。でも、来ないかもしれない誰かを待つというのは、空から飴玉が降るのを待つのに似ているよ』
「似てないだろ、そんなの。待ち人は来るかもしれないけど、飴玉が空から降るなんて、そんなことはありえない」
『本当にそうかな? 君が想像できてないだけじゃない?』
彼女が突き付けてきた文章を視認するのと同時、頭頂に軽い衝撃があった。
見れば、横合いにひとつ、飴玉の袋が転がっていた。これは伊予が好んで転がしている銘柄だ。
いつの間にこんなもの投げたのだろうか。全く気がつかなかったが、少なくとも伊予は、呆気に取られた僕の顔を見て、満足そうな様子だった。
『人間が想像できることは、人間が必ず実現できる。ヴェルヌの言葉は使い古されているけど、まさにその通りだ。極論、飛行機か何かで高高度からバラ撒いたとするのなら、直下にいる人間は飴玉が降ってきたのだと思うのだろうからね』
飴玉は無理矢理降らせることができる。
けれど、来るかもわからない人間は、本当に来ないかもしれないのだ。
それはひどく歪な構造式に見えた。可能と不可能が、安易と難易が入れ替わっている。これがまかり通るのであれば、どんな詭弁であれ説得力を持つだろう。
勿論、真相はわからないとしても、だ。
『……というかさ、なんでそんなにその子のことが気になっているの?』
箸を置いて考え込む僕に、伊予はそう問いかけてきた。
「なんで、って、そりゃ……」
僕は事も無げに答えようとして、思わず窮してしまった。
確かにそうだ。
どうして僕は、ちょっと見かけただけの見知らぬ先輩に、ここまで惹かれているのだろうか?
どこか浮世離れした、その雰囲気に当てられたのか。
それとも単純に、彼女の見た目が麗しかったからか。
色恋の類いではない……と思う。
けれど、言語化するのは難しい、なんとも微妙な心境だった。
『あるいは、出会いなんてものは、おしなべてそんなものなのかもね』
「なんだよ、その最大公約数的な結論は。まるきり意味のない言葉じゃないか」
『むしろ最小公倍数的だと思うけどね。他人とのすり合わせなんて、そうでもしなきゃ上手くいかないに違いないんだから』
さく、と軽い音を発てて、レタスの最後の一枚がフォークに刺された。瑞々しいまま切り分けられた最後の一片は、口に運ばれるまで無抵抗を貫いていた。
彼女の言わんとしていることは、相変わらずわからない。
僕をからかっているのか、それとも、自分自身には気づきようもないような真理を突こうとしているのか。
どちらにせよ、無視してはいけない事柄なのかもしれない。
僕が先輩に対して抱いた感情が何色なのか、思慕か、敬慕か、それとも、もっと粘度の高い――畏れだったのか。
「……とにかく、だ。今ここで結論を出す必要はないだろ。僕が先輩をどう思っているのかなんて、それこそ暇なときにでも考えておけばいい」
『そうやって、また後回しにするんだね』伊予はからかうように笑った。
『明日自分が生きている確証なんて、どこにもないだろうに』
彼女は食後の器を重ねながら、どこか上機嫌だった。
台所まで食器を運ぶその後ろ姿は、幼い見た目も相まって、いたずら好きの少女が機嫌を良くしているようにしか見えない。
だが、口にしている言葉はひどく刺々しいものばかりだ。
もっとも、彼女は言葉を口にすることすらできはしないのだが。
「……なんてな、流石に意地が悪いか」
僕は独り言ちて、自分の分の食器を片付けることにした。
洗剤を触ることのできない彼女の代わりに洗い物をするのは、僕の仕事だ。
ふと、時計に目をやった。そろそろ二十一時を回ろうかという時間。家事を一通り終え、今日の授業で出た課題に取り組めば、寝るには丁度いい時間になるだろう。
そうして、今日も終わる。
たとえ、身近で殺人事件が起こっていようと、そんなもので僕の暮らしは何一つ揺るがない。
まったく、いつも通りの日常だ。
蛇口をひねりながら、ぼんやりと考える。
先輩が三年生であるのなら、教室まで行けば会えるだろうか。
この心の中のもやもやに決着をつけるためだ。会いに行ってもいいかもしれない。
さしあたって、明日の昼休み辺りに行ってみようか。最悪、午後一の授業は休んでしまう手も――。
「――あ」そこまで考えたところで、僕は思わずそう漏らした。
なんということはない。思い出してしまったのだ。
手指を濡らす、生ぬるい水の感覚もどこか遠く。
僕は体の奥からせりあがってくる冷たさを抑えることもないままで、思わず息を吐いた。
――明日提出の課題のノートを、机の中に入れっぱなしだったのだ。