一章 その4
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浅海神社は町の端にある、この辺りでは一番大きな神社だ。
町域南部に聳える標高三千メートル級の霊峰、『八重藤山』の見える方向が南なのだと教わって過ごす僕らの認識では、おおよそこの場所が町の最南端にあたる。
そして、その境内の脇に、ほんの少しだけ開けたスペースがある。あつらえたように腰を下ろせる石段と、ちょうどいい木陰に遮られたそこに溜まって駄弁るのが、僕らの帰りのルーティーンだ。
西日に照らされ、朱に染まる本殿を背にして、僕らは今日も円を描くように座り込んでいた。
「山城先輩? もちろん知ってるよ、きれいな人だよね」
佑香はまるで当たり前のことを確認するように、そう口にした。先ほど駄菓子屋で僕が奢ってやったカラフルなパッケージの餅菓子を頬張っており、どうやらご満悦のようだった。
頭を下げ通し、何とかそれで済ませてもらったが、財布が痛んだことには変わりがない。
「なんだよ、親友、もしかして山城先輩狙いなのか?」
罰当たりにも崩れかけの石灯籠に腰かけていた因幡が、ぴょんと飛び降りながら軽薄そうにそう口にした。
二人の口ぶりからして、山城先輩が有名人だというのは、どうやら本当のことのようだ。
僕は学校の噂であったりとか、個人間の惚れた腫れたであったりとかの話には疎いが、ここまで通りがいいのであれば、今回ばかりは僕の方に非がありそうだ。
「でも、惜っしいなァ。残念ながら先輩は学校一の美人だぜ、親友。ここは届かない月を見上げて身を焦がすんじゃなくて、手の届く範囲のスッポンで我慢しといた方がいいぜ」
ビシッ、と大仰な様子で指された指先は、佑香の方に向いていた。「誰がスッポンだ!」と、甲高く叫ぶ声が木々の間を吹き抜けていく。
「別に、先輩と付き合いたいわけじゃないって。不思議な人だなって、そう思ったから気になってるだけだよ」
僕はとりあえず、弁明を述べることにした。多少繕ったようにはなってしまったが、勘違いされたままの方が不快なので、仕方あるまい。
「確かに不思議な人ではあるかもね、私たちもあの人のこと良く知らないし」
「そうなのか?」佑香の言葉に、僕は思わず、素っ頓狂な声を返す。「てっきり、みんなよく知ってるものだと思ってた」
「美人には秘密が多いんだよ、親友。俺らは端から眺めてワーキャー言えてればそれでいい。中身が羊でも狼でも、関係ないからな」
同じようなことを、淡路も言っていた。
そう考えてみれば僕らの現実などそんなものなのかもしれない。
世界は思ったよりも薄っぺらで、張りぼてで、虚言と令色に満ちているのだ。
「……というか、単に美人ってだけでそんなに話題になるものなのか? それこそ、見てくれのいい女子生徒なんて、ほかにもいるだろうに」
「たぶん、それだけじゃないよ」佑香が口を挟む。「あの人、いろんな委員会や先生に顔が利くんだ。イベントの運営とか、学校行事なんかに携わってるんだって」
「……後輩とはあんまり関わんないとも聞いたけど」
「あの人はそのあたりは上手いの。世渡りっていうのかな、相手の顔見ながら喋ってるっていうか、人を天秤に乗せるのが得意なんだよ」
佑香の言葉には、どこかトゲがあるように思えた。女同士の人間関係は怖いともいうし、もしかすると思うところがあるのかもしれない。
「成績優秀、教師ウケもヨシ。とくれば当然、人気者にもならあな」
機微を読み取ったのか、割り込むようにして因幡が伸びを打った。
「個人的には去年のミスコンに出てくれなかったのは残念だけどな。あくまで裏方っつーの? あんまり表に出てるイメージはないんだよな」
「ミスコンねぇ……ああいう身内ノリの極みみたいなの、嫌いなんだよな。去年も」
「ちなみに、例年優勝者はメイド服で壇上に上がるんだぜ」
「その話、詳しく聞かせてくれ」
そこまで話したあたりで、大きなため息が聞こえた。佑香が眉根を寄せながら、餅菓子の袋を握り潰していた。
パッケージに描かれたファンシーなマスコットキャラの顔がぐちゃぐちゃに歪み、どこかシュールにすら見えてしまう。
「二人とも、ほんっとくだらない話が好きだよね、男の子って、そういうものなの?」
「ああ、そうだぜ。女の子とロック、それとスポーツがあれば俺らは生きてけんだ。なあ、親友?」
豪快に笑う悪友に、僕は「半分だけ合ってるよ」とだけ返した。
呆れたような、侮蔑するような。それでいて、底の底にはちゃんと安心感の床が敷いてあるような。彼女はそんな笑みを浮かべながら曖昧に相槌を打つ。
「もう、ほんとにさあ……っていうか、信濃にはかわいい後輩ちゃんがいるんじゃなかったの?」
「お前までそれを言うのか……だから、別に淡路とは……」
「みなまで言うなよ、俺たちはちゃんとわかってるさ。恋多きかな、青春! ってこったろ?」
違うと言っているというのに。
人の話を聞かない自称親友の膝にローキックを叩き込みながら、僕は佑香に抗議の視線を向けた。それをいなす様にして彼女は視線をそらし、背景の本殿の方に視線をやった。
夕暮れに溶かすように声を張る蝉の音が、年季を感じさせる深い色の木材に吸い込まれていく。
僕らの言葉も、何もかもを記録するように、ゆっくりと染み入っていく。
夏。
今年もまた、夏が来た。今日は六月三十日。そしてそれももう終わり、日が落ちようとしていた。
人はこの時間を逢魔が時と呼ぶらしい。薄暗く、あらゆる輪郭が曖昧にぼやけたこの時間は、魔と人の境界が朧になるんだとか。
チャイムが鳴って、家路を急いで。この時間はなんだか、寂しさを感じる。別れの気配が背後まで迫っているような気がして、思わず、腰が浮いてしまう。
「あ、もうこんな時間なんだ。私そろそろ、帰らなくちゃかも」
不意に、ポケットから取り出したスマートフォンに目を落とした佑香は、そのまま立ち上がり、スカートの埃を払い始めた。
「ん? なんだ、もう帰るのか? 随分と早いんだな」
「うん、今日は妹がご飯作ってくれてるんだ。それに――」
佑香の顔が、微かに曇った。
先ほどまで柔らかく上がっていた口角が引き結ばれ、わずかに目が泳いでいた。
「――最近、物騒だしさ」
口にした途端、わずかに辺りの気温が下がったような気がした。先ほどまでは涼しく感じられていた風が、生ぬるく頬を撫でた。
物騒。
何とは言わずとも、僕らの脳裏には共通の事柄が浮かんでいた。
『あの事件』。
無関係に思えていても、確実にあれは起こったことなのだ。
この町で、人が死んだ。それも、僕らと同じ高校生が。
たとえ僕らが平気な顔をしていても、大人たちはそうではないだろう。心配をかけないように振舞うことくらいは、高校生にもなれば覚えるものだ。
「……じゃあ、俺らも帰るとするか。佑香、途中まで送っていくぜ」
先を歩きだした因幡の影が、長く伸びていた。それに続く佑香の影も、きっと、僕のもそうなのだろう。
岐路に至るまで、くだらない話を積み上げる。夕立の気配すらないオレンジ色の空が、端の方から夜に食われていくのが印象的だった。