一章 その3
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"あの事件"。
僕たちがそう呼んでいるのは、つい先日この町で起こった殺人事件のことだ。
ニュースの報道以上のことは僕らもよく知らないが、現場になったのは、大通りから少し外れた辺りの裏路地らしい。
被害者はうちの生徒、同じ学年だけど、クラスは違う陸上部の女子だ。
そのせいかはわからないが、陸上部の部室は封鎖されていて、たまに警官が出入りしているのも見かける。
死因は出血性のショックだという。胸を鋭利な刃物で何度も突かれていたようであり、明確な殺意があっての犯行だと囁かれている。
おかげで、期末テストを控えたこの時期に一日休校が挟まってしまった。手放しに喜んだり遊びに行くわけにもいかず、窮屈だったのを覚えている。
保護者会では随分とヒステリックな声が上がったようだが、僕らはからすれば、恐怖や危機感などはどこか遠く。
刺激などほとんどない、長閑な田舎町に突如として起こったその凶行は、確かに大きな話題を呼んでいる。
曰く、犯人は被害者の知人だったとか。
曰く、犯人は異常な嗜好を持つサイコパスだとか。
曰く、犯人は――。
「――まさか、な」
僕が保健室を後にすると、静かだった廊下に活気が満ち始めていた。
あちこちから椅子を引く音や号令の声が聞こえ、数分も待たぬうちに喧騒に包まれることだろう。
リノリウムの床とコンクリートの壁は、よく声を響かせる。それこそ、耳障りなくらいに。
「……人殺し、か」
僕は何とはなしに、口の中で言葉を遊ばせた。
噂話にしてはタチが悪い。淡路は「ああいう人は僻まれるものですから、敵も多いんですよぅ」なんて言っていたが、それにしても人殺しとは流石にやりすぎだ。
確かに、犀利な雰囲気を纏う人だった。
冷たさとも違うあの気配。確かに、僕の胸を満たした感情に名前をつけるのであれば、ある種の"畏れ"であることは間違いないのだろう。
しかし、単純な殺意や敵意とはどこか違う気もした。今までの人生で向けられてきたあらゆる意思に類似品はない。
けれど、確かに死の匂いがした。
「……山城先輩、って言ってたか。あの人は、いったい――」
そこまでを口にした僕の思考は、唐突に背中に走った衝撃に断ち切られた。
「よう! なーにぶつくさ言ってんだ、親友!」
振り返れば、丁度平手を振り抜いた姿勢のまま、ケラケラと軽薄そうな笑みを浮かべる男子生徒の姿があった。
身長は僕より頭ひとつ高い。赤茶く染めた髪をワックスで遊ばせており、その涼やかな目元は、悪戯っぽく歪められている。
「……因幡か、どうしたんだよ、いきなり、痛いじゃないか」
背中には今も、ジンジンと響くような痛みが残っている。挨拶にしても、強く叩きすぎだ。
「どうしたもこうしたもあるかよ」彼は茶化すように言う。「お前、さっきの体育サボってたじゃんか。先生、カンカンだったぜ」
腰に手を当て、ため息と共に口にした彼の目に、どこか憐憫のような色が浮かんでいた。
「うっさいな、いいだろ別に。腹痛かったんだよ」
「腹が痛かった? もうちょいマシな嘘吐けよ親友。俺は別に、サボりを咎めてる訳じゃないんだぞ」
「じゃあ何だってんだよ、一緒に謝りに行ってくれるっていうのか?」
と、そこで彼は唐突に肩を組んできた。体操服の肌触りと共に、微かな汗の匂いが鼻を突く。
「水くせぇって話だよ、後輩ちゃんに会いに行ってたんだろ? それなら、俺らくらいには言ってくれっての」
「……淡路は、そういうんじゃないっての」
僕は腕をはね除けながら、彼と並んでだらだらと教室に向かって歩き始めた。
もしかすると他のクラスメイトにも奇異の視線を向けられるかも知れないな、と、そんなことをぼんやりと考えながら、下らない会話を交わし、教室の扉に手を掛けた。
「あー、そうだ。別に先生が怒ってたってのは、どっちでもいいんだけどよ」
そこで、惚けたように因幡が大きな声を出した。どこか白々しい、間の抜けた調子だった。
「なんだよ、何か他にあるっていうのかよ」
「いや、その、なんだ。まあ――本人に聞いた方が早いわな」
そこまで、彼が口にした途端だった。
ガラリ、と音を発てて、自然と教室の扉が開いた。
そして、訝しむよりも早く、僕の視界にそいつは現れた。
「しーー、なーー、のーー」
どこか間延びした声と共に出てきたのは、一人の女子生徒だった。
僕よりも少しだけ低いくらいの背丈に、肩口で切り揃えた茶色みがかった髪。そしてその右側の房を三つ編みに結っているのが特徴的だった。
彼女はアーモンド型の大きな目を三角にしながら、僕に向かって、今にも掴みかかってきそうな剣幕で近付いてくる。
「ゆ、佑香、どうしたんだよ。僕が何か、気に障ることでもしたか?」
「気に障ることでもしたか? じゃないわよ、信濃、なんで体育サボったの?」
「いや、まあ、サボりっていうか……ほら、体調悪くてさ」
「……午前中は普通に、元気だったじゃん」
答えに窮して、僕は思わず目を逸らしてしまった。
彼女、対馬佑香は怒りを通り越して呆れ始めたのか、大きなため息を一つ吐いた。
深い、深い嘆息だった。
「信濃がサボったせいで、体育委員の私が怒られたんだから。今度、何か奢ってよね」
そんな無体な、と言い返そうとして、やめた。膨れる彼女にこれ以上反抗すれば、後で何を言われるかわかったものではない
まあ、そういうこったな。項垂れる僕を追い越しながら、因幡はへらへらと口にした。
彼の後について教室に入ってゆけば、節操のない喋り声や、慌ただしさが行き交っているようだった。
昨日、山城先輩が佇んでいた時のような、神秘的な気配は既に絶えてしまっていて、まるっきり別の場所のようだ。
実に猥雑で。
実に俗っぽく。
けれど、穏やかな毎日。
そんな風に表現すれば笑われてしまうだろうが、それでも、非現実などとは程遠い、オッズ通りの現実だ。
「ほーら、信濃。あんたも早く次の支度しなきゃ、まさか次の授業までサボる気じゃないんでしょ?」
佑香が、まだ少しだけ不機嫌さの残る声色でそう告げてきた。
「ああ」それに、僕は軽い調子で答えた。「言われなくても、だよ」
非現実の気配を頭から追い出して、僕は窓際一番後ろ、自分の席に向かう。
この時はまだ、何も知らなかった。
自分が、薄氷の上にいることすらも。
――この日々が、不均衡な足場の上に成り立っているということも、だ。