終章 その4
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望むと望まざると、日は上って朝が来る。
僕は重い頭に悪態を吐きながら、ゆっくりと体を持ち上げた。間違いなく人生で、最悪の目覚めだった。
昨日はいつの間に寝てしまったのだったか。暗い部屋の中で、全てを呪うようにして目を閉じたことだけは覚えている。
淡路も。
佑香も。
有佐も。
誰ひとりいなくなり、先輩すらも裏切ったというのに、この世界は我が物顔で回り続けていた。
胃がむかつく。喉を焼く胃液が、食道のすぐそばまで上ってきている感覚があった。
無理に体を起こそうとすれば、嘔吐してしまうかもしれない。
どうせ今日は休みなのだから、もう一眠りしてしまおうかと、毛布に手を掛けた瞬間だった。
コン、コン、コンと三度。控えめなノックが部屋に響く。
驚く僕に構うことなく、ゆっくりと扉が開いた。
入ってきたのは、白銀の髪を靡かせた伊予だった。彼女はその無感動な瞳で僕を一瞥すると、手に持っていたディスプレイをこちらに向けてくる。
『起きていたんだね』彼女はぺたぺたと、重みを感じさせない足音を伴いながら。
『起きてこないから、てっきり寝坊したかと思ったよ』
「ああ、悪い……ちょっと、寝覚めが悪くてさ。すぐに行くから、待っててくれよ」
僕は頭をガシガシと搔きながら、彼女にそう告げた。
朝の爽やかな空気を楽しむことは、到底できそうになかった。
しかし、伊予は意外そうに首を傾げる。
『うん、私はいいけどさ。君はいいの? あんまりのんびりしていると、遅刻しちゃわない?』
「遅刻? 何言ってるんだよ……」
今日は七月八日。
昨日で学校は前倒しの夏休みに入り、期末試験も夏休み明けまで延期。これから向こう一ヶ月は授業など行われない。
学校など無いというのに、彼女がその手の勘違いをするのは、とても珍しいことだった。
だが――伊予は眉をひそめた。まるで僕が何を言っているのか、わからないとでも言うように。
『……朝が辛いのはわかるけどさ。でも、そんなに雑なサボりの理由は、よくないんじゃないかな』
「だから、意味がわからないって。今日は七月八日、夏休みだって言って――」
『――何言っているの? 今月はまだ、六月だよ?』
何かの冗談かと思った。
だが、すぐに思い直す。彼女はそういった冗談を言うような人間ではない。
僕は枕元で充電していたスマートフォンを掴み、そのまま電源を入れた。一瞬の待機時間の後、デジタル表記の日付と時間がハッキリと映し出される。
「……なんだよ、これ」僕は思わず、端末を取り落とした。
六月二十二日。午前七時三十分。
表示されていた日時は、表記が間違っていないのであれば、二週間以上前の日付を指していた。
「……は?」思わず、間抜けな声が漏れた。「これ、どういうことだよ?」
伊予は首を傾げた。彼女にもわからないというのであれば、お手上げだ。
まさかこれまでの日々が、悪夢のような毎日が全て夢だったということはあるまい。だとすれば、これは一体。
『超常だね、君が寝惚けているんじゃなければ、何かおかしなことが起こってるみたいだ』
「……目は、もう覚めてる。僕は眠りに落ちるまで、確かに七月七日にいたんだ」
『なら、思い返してみるといい。寝る前に何か、変わったことはなかった?』
僕は思考を巡らせた。変わったことなど、何も思い付かない。
ただ、僕は絶望していた。深く、深く。何もかもが嫌になるくらいに、何もかもを、自分すらも――殺してしまいたくなるほどに。
「……まさか」僕は、背中から吹き出した冷たい汗を拭うこともできないまま、ただ呆然としていた。
それは、恐ろしい結論だった。けれど、一度思い至ってしまえば、もう他に考えられないほどにしっくり来るものでもある。
認めがたいが、まさか、僕が――。
「――僕が、"症候群"を発症したっていうのか……?」
可能性は、ある。心への強い負荷、追い込まれた状況、ある意味では先輩の言っていた、発症する条件を満たしてはいるだろう。
呪い、憎み、憤り。その感情は恐らく、殺意と呼んで差し支えないほどに鋭さを増していたことだろう。
だから、僕はここまで戻ってきたというのだろうか。僕らの青春を壊した、"症状"に頼ってまで――?
『超常だね。事情は私にはわからないけど、何かおかしなことが起こっているみたいだ』
伊予はあくまでも冷静だった。彼女はいつもそう、すべてを見透かしたように、すべてを把握しているかのように。
『ちょっと、話してみてよ。私なら、今の君の疑問を解決してあげられるかもしれない』
彼女の言葉には、どこか確信めいたものがあった。
物語からつまはじきになった、虚弱の天才。
けれど彼女は、いつだって正しかった。正しくて、聡明で、そして何より、回答を出すことに関しては、右に出るものがいなかった。
だから、話した。一部始終をすべて。"症候群"、"症状"、対馬姉妹の入れ替わり、そして、僕の絶望についても、全部。
彼女はそれを、リアクションも挟まずに聞いていた。そして、それらをゆっくりと咀嚼してから、緩慢な様子で答えを出した。
『なるほど、それは間違いなく、その病気のせいだろうね』
彼女はそう結論付け、さらに続けた。
『君は、結末のすべてを呪ったんだ。そして、殺したいとも思った。悲劇的な結末、そのものに殺意を抱いたんだろうね』
「……結末、そのものに?」僕は反芻した。
『そう、そして、その事件が起こったという事実を、時間軸ごと殺したんだと思う。結果、世界には空白が生まれて――君は、疑似的に過去に戻ってきたというわけだ』
淡々と、彼女は非現実的な言葉を並べていく。何も知らないまま聞いていれば、彼女が絵空事を口にしていると思ってしまうことだろう。
しかし、僕は奇妙にも納得してしまった。
目を閉じたのは僕だったから。あるいは、その手のひらに、世界を殺した感覚が残っていたからかもしれない。
『それにしても、救えない話だ。救われない話だね。一つでも多くの命を救おうとしていた君が、結局誰よりも多くの命を奪ってしまった。あの世界に生きる全ての存在の可能性を断ち、未来を閉ざしてしまったのだから』
全くもって救いようのない話だ。
僕も同意見だ。最後の最後で、僕は何もかもを台無しにしてしまった。
ハッピーエンドを見たいという、ただそれだけのために、取り返しのつかないことをしてしまった。
失われてしまった命は戻らない。それがどんなに理不尽に奪われたものであるにせよ、恐らくはそうあるべきだったのだ。
やがて世界は傷を忘れ、跡も残さず回っていく。かつて擦りきれたその場所には肉が盛られ、一回り強くなれたのかもしれない。
遺族も。
その知人たちも。
もしかすると、手にかけた有佐本人でさえ――成長させられたのかもしれない。
僕はそれらを根こそぎにした。死んだ人たちの、それを悲しんだ誰かの痛みを、苦しみを、そして何より、有佐の決断を、無かったことにした。
許されることではない。僕のエゴは正しく世界を殺したのだ。
「……でもな、伊予。僕は今回の件に関する後悔は、さほどしていないんだよ」
僕は彼女を真っ直ぐ見据えて、そう言った。
強がりなんかじゃない。僕が世界に許されないのであればそれでいい。だけど、僕はあの結末を許せなかった。ただそれだけのことで、でも、それを譲ることはどうしてもできなかったのだ。
だから、もし、僕の愚行の理由をまとめるのなら、気取ったようではあるけれど、こう結ぶべきなのだろうと思う。
「僕は、世界よりも二人の方が大切だった。どんなに筋が通らなくても、佑香と有佐が揃って生きられる世界の方が、よっぽど大切なものだと思えたんだよ」
伊予はほんの少しだけ微笑むと、もう一度僕に画面を突き付けてきた。並んだ言葉に、思わず僕も笑みが漏れる。
『じゃあさ、つまりはそれって、どういうことなの?』
待っている言葉はわかった。だから、目一杯に格好つけて、気取って、言ってやった。
「――僕もあいつらを天秤にかけたってことなんだろうよ」
『それはなんだか、救いようがないくらい、上々だね』
そりゃどーも、と僕は腰を上げた。




