終章 その3
***
それからどうやって帰ってきたのかを、僕は覚えていない。
どころか、どんな風に親友と別れたのか、授業はしっかり受けたのか、そもそも、あの後も学校に残ったのか。何一つ、僕の頭には残っちゃいなかった。
僕の意識が次に覚醒したのは、自室のベッドの上だ。窓の外は塗り潰されていて、どんな時間の過ごし方をしたのであれ、もう日が落ちてしまったことだけは事実みたいだった。
僕は電気もつけずに暗い部屋の中で、呆けたまま天井を眺めていた。
ふと、思い立って息を止めてみる。喉の奥に虚空が詰まる感覚。
胸に違和感が広がって、肺が酸素を求めて骨の内側でギシギシと主張する。やがて苦しさに耐えかねて、僕は咳き込むようにしながら息を吸った。
なんのことはない。僕は、まだ生きていたのだ。
死んだように口を開けて。
それでも、確かに生きていた。
「…………ねばよかったんだ」
ぼんやりと、思考が言葉を成した。
半分ほどが音にならなかったが、言い直すつもりにはなれなかった。
自己嫌悪がぐるぐると渦巻く。胃液が混み上がる感覚は喉の下部で留まって、食道をじんわりと焼いていた。
いっそ、このまま爛れ、綻んで、ぐずぐずに溶けて死んでしまえたら楽なのに。
僕が死んでしまえたなら、こんなことにはならなかったのに。
ずっと考えていた。どうしてこんなことになってしまったんだろうか。
どうして、僕は友人に命を狙われて、友人に枷を嵌めるようなことになってしまったのか。
いつから、僕らの普通の高校生活は終わってしまったのか。
きっと、この物語には悪人なんていなかったのだ。有佐に殺された被害者たちだって、本質的に悪いことをしていた訳じゃない。
ただ、思うがまま口にして、思うがまま振る舞って。それが自分の役割だと割り切って演じていたはずだ。
先輩も、佑香も、淡路も。誰一人として悪意をもって物語を歪めようとしたりはしなかった。
どころか、あれだけ手を汚した有佐だってきっと、悪くはないのだろう。彼女は幸せになりたかっただけだ。
今よりほんの少しだけ幸せになるために、彼女は狂ってしまった。なら、ある意味では被害者とすら言えるのかもしれない。
なら、誰一人として悪くないのであれば。どうして、ここに行き着いてしまったのだろう。
こんなどん詰まりの最低な未来に行き着いてしまったのだろう。
「――僕だ」
答えは、簡単だった。
僕が、唯一の罪人だったのだ。あの双子のことに気付かず、身勝手に振舞い、鈍感のあまり、彼女らの感情すら踏みにじった。
僕がもっと優秀だったなら、有佐を狂気に沈めずに済んだ。
僕がもっと有能だったなら、淡路を守ることができた。
僕がもっと敏感だったなら――佑香をあんな風に終わらせることも、なかったはずだ。
結局のところ、この結末は全て僕のせいなのだ。僕の怠惰と、欠落と、ほんの少しの不幸のせいで、ここまで転がってしまった。
例えば、双子の入れ替わりに気付いていたら。
例えば、あの日淡路と帰らなければ。
例えば、『症状』の違和感にもっと早く至っていたら。
たぶん、何かがどうにか変わっていたはずなのだ。上手く言語化はできないし、因果関係の説明も難しいけれど、それでも今よりマシな未来に到達できただろうということは、想像に難くなかった。
胸に残るのは、後悔ばかりだ。
けれど、悔いたところで何も戻ってきはしない。
もう全て――終わってしまったのだから。
「……………………」
なのに。
なのに、僕は。
どうして何もかも終わってしまったのに、まだ生きているのだろうか。
どうして、ここがゲームオーバーではないのだろうか。
暗転して、意識が途絶えて、それっきりになってしまえばいいのに。
なのにどうして、世界はまだ生きることを強いるのだろうか。
どうして。どうして。どうして。
一度繰り返すごとに、肋が軋む。死んでしまいそうなくらいに痛いのに、それが大袈裟なのだと、嫌でも理解させられる。
痛くても死ねない。
痛くても生きている。
痛みに耐えながら、これからも。
生きていちゃいけないのにこれからも。
間違い続け、失い続け、失敗と後悔と慚愧と懺悔と喪失と別離と欠損と犠牲と嘲弄と侮蔑と孤独と売買と化膿と、それでも表現し得ないドロドロとしたヒトの中身を膝までの泥濘に沈め、まだ歪曲と偏向と語弊と偏見と誘導と扇動と誤解とを重ねて、その上に物欲と性欲と生存欲を載せながら、世界は回っていく。
空転する歯車のように。無風地帯の風見鶏のように。通電していない扇風機のように。空虚に、意味もなく過ぎていく。
僕は。
僕は、それを。
それを許せるのか?
朝起きて、通学路を歩く/オイカケテクルコウハイハイナイ。
教室に入って、自分の席に座る/コエヲカケテクルユウジンハイナイ。
図書室に行って、本を借りる/ホンガスキダッタカノジョハイナイ。
移動教室の廊下で、すれ違う/ソノヒトヲオマエハウラギッタ。
ソノヒトヲボクハウラギッタ。
なのに、認められるのか。こんな結末を、これからいくつもやり過ごさなきゃいけない、こんな毎日を。僕は許せるのか。
膨らむ。
膨らむ。
僕の中で、何かが。
それと同時に、闇に体が溶けていく。手も足も原型を失って、世界を視認する視点としてのみの眼球と、剥き出しの脳味噌だけが宙に浮いた。
鼓動に合わせて、部屋を満たす暗闇が脈打つのがわかった。
苛立ち。
ささくれ。
刺々しい塊が、僕を内側から串刺しにする。
――さなければ。
――――さなければならない。
――――――さなければ、――さなければ、――さなければ――さなければ――さなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければなければ――。
――殺さなければ。
こんな結末は、殺さなければならない。
僕はゆっくりと、腕を持ち上げた。
もう腕なんてものは僕にはついていないようにも思えたが、どこかで、何かが確かに首をもたげた。
空気が震える。やってはいけないことをする前の、あの感覚だ。奇妙な高揚と、ほんの少しの抵抗と、それをぶち壊しにする衝動。
名前をつけるなら、これは。
これは――惨禍だ。
最後の一線を越えるのに、もう躊躇はなかった。僕は腕を降り下ろす。
それは何に対してのものなのかもわからず、或いは久遠の向こう側、三千世界の片隅で何か懸命に叫び続ける肉塊を致命的に磨り潰すようなものだったのかもしれないが、少なくともこの時点で、僕がそれを認識することはできなかった。
劇的な変化はなく。ただ、和紙に墨を浸すようにじんわりと、じんわりと輪郭が崩れていった。
ひどい耳鳴りが、加速度的に最後の感覚器を覆い尽くしていく。分厚い無色に包まれた僕は、空っぽの体を振るわせる。
落ち葉を踏みしめるような、乾いた音。
こうして僕は目蓋を閉じた。
もう二度と開かぬように、何も見なくて済むように――。




