終章 その2
僕はその声に、思わず振り返る。扉が開いた音はしなかったはずだ。なのに、彼はそこにいた。
「そもそもおかしいだろ。夜の校舎で死体を見つけたってのに、落ち着いて髪の結び方なんて確認してられるかよ。それに、その程度で疑念を抱くなら、お前はもっと早く真相にたどり着けたんじゃないのか?」
まくし立てながら、僕の無二の親友――因幡は、ゆっくりと僕に近付いてくる。
僕はなにも言えない。どうしてここに、とか、いつから聞いていたのか、とか。そうでなくても、どうしてお前が今回の件を知ってるんだとか。
いくらでもありそうな疑問は、けれど一つとして音の形にならなかった。
だって彼の口にしたそれらは全て、的を射ていたのだから。
「あの時、お前は先輩と別行動をしていたんだろ? ってことは、死体に何かする時間があったんじゃないのか?」
「……先輩をすぐに呼んだんだ。そんな時間はない」
「それを証明することはできないだろうがよ。あの時、お前は一人だった。お前という語り手、お前という観測者しかあの場にはいなかったんだ」
お前は嘘を吐いた。
お前が吐いた嘘が――真実になる。
「……僕が語り手として、信用が置けないってことかよ」
「違うな。あらゆる語り手を信用すべきじゃないんだ。バイアスがかかる、くらいなら見逃せるが、意図的に事実を歪めようとするのはルール違反だろ」
「お前こそ、何者だよ。今さらそんな風に物語に絡んでくるなんて、そんな複線、これっぽっちもなかっただろうが」
ニヤリ、と彼は笑う。その悪趣味な笑い方には、どこか見覚えがある気がしたが、僕はそこまで至らない。
「俺はただの使い走りだよ。そんでもって、お前の友人だ。ここまでもほとんどが受け売りだぜ」
友人。
確かに、彼は友人のままでそこにいた。きっと彼の役割は、一貫してそのままなのだろう。
僕はひとつ、息を吐いた。まったく、吐いた嘘もこんな風に大気に溶けて見えなくなってしまえば、本当に楽なのに。
もう、隠す理由も無いように思えた。
惨劇は終わったのだ。佑香は捕まった。本人は容疑を認めていて、このままきっと、事件は風化していく。
その後にほんの少しだけ、背を軽くしたって、罰は当たらない。
少なくとも僕の信じるカミサマは許してくれると思う。
だから僕は――それを口にした。
「彼女の死体を見つけたとき、本当はすぐに先輩に連絡しようと思ったんだ」
そう、あの時。僕は彼女に駆け寄りながら、反射的にポケットの中のスマートフォンに手を伸ばしていた。
一刻も早く先輩を呼ばなければ。高鳴る鼓動と引き伸ばされた時間の中で、それが最善であると信じていて、たぶん、それは間違いなかった。
なのに僕は――そうしなかったのだ。
「彼女が右手に、何かを握り込んでるのが見えたんだよ。それが無性に気になって、ひとまず確認することにしたんだ」
「……何だったんだ?」
「手紙だったよ、くしゃくしゃの。たぶん、あいつは自分が殺されるとわかってて、あらかじめ用意してたんだろうな」
「遺書か。有佐もそんなもん用意するくらいなら、助けの一つでも求めりゃよかったのに」
「――違う、ここに来たってことは、お前はもう知ってるんだろ」
僕は思い出す。あの時の場景。暗い体育館。世界に僕しかいないみたいな静寂と、月明かりに照らされて浮かび上がる、眠るように横たわった、少女の横顔。
横顔。
僕は、そうだ。近付いて、手紙を読んで、ようやくその事実に気づいたんだ。
「違うねぇ、具体的に、何がだよ?」
彼に、それを告げるかどうか。僕はほんの少しだけ逡巡した。けれどもう、今さら隠したって無駄なんだろう。
だから。
「……死んだのは、有佐じゃなかったんだよ」
僕は。
事実を。
口にした。
「やっぱりな」因幡はしたり顔で言う。
僕は今度こそ嘘は吐いてない。
あの夜死んでいたのは有佐ではなくて――姉の佑香だったのだ。
「にしてもだ、ケーサツもあれは有佐の死体だって断定したんじゃなかったか? なんか、DNAとか、歯形とか、そんなんでさ。俺はそこだけが納得いかねぇよ」
「……あくまで推測だけど。その生体情報には、信憑性がなかったんじゃないかと思うんだ」
「生体情報に、信憑性が……?」
「あの二人の交代劇は、何も今回だけじゃなかったのさ」
あの双子は、定期的に入れ替わっていた。
例えばサボりたいときに、有佐は佑香と入れ替わっていた。
有佐は真面目で頭が良くて物静か。
佑香は友好関係が広くて活動的。
それぞれの立場をそれぞれが都合のいいように交換して、彼女らは日々を過ごしていた。
それがあの二人なりの処世術だったのだろう。
"佑香"と"有佐"。交換可能な二つの人格を使い分けて、共有して、彼女らは自分を保っていた。
歯形が一致したって、それはつまり歯医者に行った時にたまたま"有佐"だったと言うだけで、実際には佑香が行っていたかもしれない。
あの二人に関しては、全ての情報が溶け合ってしまっていて、どちらがどちらのものなのか、判別もつかないくらいなのだろう。
「……じゃあ、俺らがいつもじゃれ合ってた佑香は、佑香じゃなかったかもしれなかったってことになんのか」
「まあ、そういうことになるな。あの二人の入れ替わりは日常的に行われていたんだと思う」
だから僕が先輩と空き地を見に行った日、佑香は挙動不審だったのだろう。あの日も入れ替わりは行われていたのだ。
だとすれば、ああ。きっと、彼女はカミサマを恐れていたのだ。
彼女にとってのカミサマは、もう一人の自分。交換可能でかけがえのない、ただ一人の姉妹だった。
だから殺して、神無き世界を作ろうとした。許されるために、手にかけた。
ならきっとこの結末は――天罰だったのだろう。
「まあ、そんなもんは些事だろ。それでだ、お前が見た手紙には、何て書いてあったんだよ」
「……最初の一文は、謝罪だった」
今でも一言一句違わず覚えている。
双子の入れ替わりについての詳細。犯人が妹であること。
自分を殺して一人になろうとしているということ。
そして、最後の一文はきっと、一生忘れられない。
「…………それは、だ」
「ああ、『私を、有佐にしてください』だったよ」
「……だから、お前はあんなことをしたのかよ」
「すごいな。本当に何もかもお見通しじゃないか」
そうだ。この事件において、僕は共犯者。
語り手が片棒を担いでいた、不正の元凶。
不整脈。
佑香の死体の髪を結ったのは――僕だったのだ。
「髪の結び方が乱れていたのも、お前が結ったからだったってことだな。他人の髪を弄るのに慣れてないお前が見よう見まねでやったなら、そりゃあメチャクチャになるわな」
「最悪の気分だったよ、死んだ友達の髪を結ぶなんてさ。手は震えてたし、何度も失敗しそうになった」
「……なら、そんなことしなきゃよかったんじゃねぇの?」
その通りだ。あの時、僕には選択肢が与えられた。つまり、有佐を殺すか、佑香を殺すかだ。
あの場ではもう、僕には正しい判断などできるはずもなかった。
だから僕は、漫然と彼女の髪に触れた。最後の最後くらいは、頼みを聞かなければならないような気がしたのだ。
後は――語った通りだ。工作が終わった後に先輩を呼んで、あたかも見つけたばかりのように装う。膝から崩れ落ち、平静を保ちながらも傷ついた様子の僕に、先輩は、それ以上の詮索をしなかった。
だから、ある意味では僕は彼女の善意をも利用したのだ。
決して誉められることではないし、誰にも許してもらおうとは思っていない。
これは、僕の、僕だけの罪だ。
「……そりゃあ、いいさな。俺としても友達がみーんな塀の向こうに行っちまったら、寂しくなるしよ」
「なんか、軽く言ってくれるよな」
「俺にとっちゃどっちにしろ他人事だしな。今回の件には一切関わってないし、関わる気もなかった。でも、もう何もかも終わったんだからさ、愚痴くらい言わせてくれよ」
「……愚痴なら適当なやつに聞いてもらえよ。僕はもう腹一杯だ」
辛いのも。
苦しいのも。
悲しいのも。
もうこの数日間で、嫌というほど味わった。だから今はとにかく時間が欲しかった。
この日々に空いてしまった空白に、慣れる時間が欲しかった。
家の柱についた傷が、いつか風景の一部になるように。
紙の端で切った指先が、滑らかに繋がるように。
僕はきっといつか、この惨劇すら風化させる。
忘却曲線に従って、この思いすらも忘れてしまう。
だから、一刻も早くそうなって、僕は――。
「無理だよ、お前には」
因幡はにやけ面を崩さずに言った。
おどけたような調子ではあったが、口調ほどふざけていないことは、目を見ればわかった。
「お前は忘れられないよ。何もかも抱えて生きていく。佑香を救えなかったことも、有佐を見殺しにしたことも、その全部に後悔しなくちゃいけない」
「……別に、そんな」
「ならどうして、先輩に本当のことを言わなかったんだ?」
その言葉は。
たったひとつで、僕の胸の中を根こそぎにした。
言ってもよかった――はずだ。
先輩の目的は惨劇を回避することでも人命を守ることでもなく"症候群"の根絶なのだから、今回の僕の不始末も、散々文句は言われるだろうが、最終的には目を瞑ってくれたのだろう。
あの人はそういう人だ。ドライに振る舞って、遠ざけて。
それでも最後は放ってはおかない、体温を帯びた優しさを持った人だ。
だからこそ、僕は言えなかった。
天秤にかけるまでもなく明らかで、善悪も貴賤も、ハッキリとしたたった一つの事実。
あの人を裏切ったという事実は、隠せるものなら隠してしまいたかった。
「なーんて思ってるくせに、物語の外側にいた俺にはペラペラと喋っちまうんだもんな。お前はそういう半端もんなんだよ。打ち明ける度胸もなければ、墓まで持ってく忍耐力もない。どこにでもいる普通の高校生で、それ以上でもそれ以下でもないんだ」
だから僕は後悔し続ける。
過去を呪いながら生きていく。
……いつまで?
たぶん、死ぬまでだ。
いつかはわからないが、僕も死ぬ。佑香のように劇的にではなく、或いは、今回の事件の被害者たちのように悲劇的にでもなく、僕はいつか当たり前のように朽ちて、果てていく。
いくつも背負った十字架が、いつか僕を押し潰す。
それまでの、長い懺悔の旅。
僕はその一歩目を、踏み出してしまったのだ。
「なあに、大したことじゃないさ。人間普通に生きてりゃ、知らないところで人の一人や二人殺してるもんだ。それを認めるかどうか、それに気付けるかどうかってだけで、お前はそれがほんの少しだけ露骨だったから気付いちまった」
それだけだろうよ。と、因幡は締めた。彼なりに気を遣ってくれたのかもしれない。
だけどその言葉は、これっぽっちも響かない。僕の心に、固い凝りができてしまったようだ。
佑香は、親友だったと思う。
僕の狭い交友関係の中では数少ない、心を許せる人間だった。
そんな友人にも知らない面はあって、実は中身は別人だったりして、最後は全てを置き去りにして逝ってしまった。だからこそ、僕はたぶん、疑ってしまう。
因幡もいつか、僕から。
なら、一体どうすればいいのだろうか。
僕は今回の失敗を、どう活かせばいい? 絶えてしまった双子の未来を、裏切ってしまった信頼を、どう次に繋げればいい?
考えれば考えるほど、ここは袋小路だった。
致命的に壊れてしまった安寧は、しかし、これからも続いていく。
この収束はゲームオーバーではなくて、ひとつのエンディングだとしても、その先も人生は続く。
惨禍に沈んだ僕らも、誰かにとっては対岸の火事でしかなく、世界は恙無く回る。
なら、この続きを、どうしようもなく歪んでしまった物語の続きを僕は――どうやって生きればいい?
「……なあ、因幡」
消え入りそうな声だった。肺も、喉も、何もかもがカラカラに乾涸びていて、それを絞り出すだけで体がバラバラになってしまいそうだった。
息を吸う度に、体の中に真っ黒な澱が沈んでいく。
何かが、僕の中で渦巻いている。皮膚の内側をカリカリと引っ掻きながら、それはだんだんと膨らんでいく。
全身の血が冷たくなる感覚。
眼球が破裂しそうなくらいに張りつめて、舌からは水分が飛び、ザラザラと上顎の裏側を削り取る。出血などするはずもないのに、どこからともなく滲んできた鉄の味は、胃液の逆流を促した。
その中で、心臓だけが胸の中で強く脈打つのを感じる。しかし、それは明らかに不揃いな調子だった。
不整脈。
あるはずのない脈がある狂った関係。
犯人と共犯者。
人殺しと見殺し。
殺人者と傍観者。
対馬有佐と、信濃一樹――。
いくつもの単語が、頭の中を駆け巡る。それはミキサーのように高速で回転しながらも、頭蓋の内容物には傷ひとつつけなかった。だから、僕は迷い続ける。悩み続ける。苦しみ続ける。
騙し絵のような生き地獄。
だから、思わず口にしてしまったのだ。
「――僕は、生きていていいのかな」
その答えを持っている人間など、どこにもいるはずがないのに。




