終章 その1
少し早く梅雨が明けた夏の空は、当てつけのように晴れ渡っていた。
七月七日。
あの大嘘みたいな夜が明けて、何もかもに幕が引かれたような気になっていたが、それはそれとして、当然のように授業は行われることになった。
僕らが派手にやりあったせいか、校内には今も警察が出入りしているが、この場所からわかることなど、もうほとんどありはしないだろう。
ただ一人の女の子が病気にかかって。
それを治しただけのことなんだから。
僕は廊下の窓枠にだらりと寄りかかり、長く息を吐いた。
半分ほど頭を窓から出しながら、何とはなしに外を眺める。
校舎は静まり返っていた。全校集会が行われているらしく、生徒は皆校庭に集まっているのだ。
炎天下の中、長々と話を聞かされるなんて、拷問にも等しい。
だから僕はわざと登校時間を三十分ほど遅らせることにしたのだ。
だから、ここには誰もいない。現実と向き合い、気持ちの整理をつけるには、この静寂が必要だった。
「遅刻したからって、集会に出ないのはどうかと思うわよ」
それを切り裂いて飛んできた声には、ほんの少しだけ呆れが混ざっていた。
感情の味蕾が開かなかったのは、冷えきってしまっていたからか、それとも。
「……寝不足で吐き気がひどいんで、風に当たってたんですよ」
振り向くと、そこには先輩、山城綾奈が立っていた。
頭や手足に痛々しく巻かれた包帯以外は、ほとんどいつも通りのその姿に、安堵した。
しかし、同時に激しい痛みが襲う。ともすれば胸に穴が開いてしまいそうだ。それでも、現実を受け入れなければならなかった。
「……全部夢じゃ、なかったんですね」
僕はぼそりと呟いた。現実離れした日々が終わりを告げたことに、未だに実感が持てていなかったのだ。
いや、違う。認めたくなかったのだろう。あんな誰も救われない陰惨な結末を、悲痛な末路を、僕は夢だと思いたかった。
寝て起きれば何もかもが元通りになっていて、笑顔と愚痴をいっぱいに積み込んだ一日が、恙無く始まるのだと。
そうならばどれだけいいことかと、思っていたのだ。
「夢じゃないわ。私たちはようやく、病巣の摘出に成功したのよ」
先輩はふわり、と、僕の隣に並んだ。そして、先程まで僕がそうしていたように窓に凭れかかる。
病巣の摘出。
それはつまり、佑香の"症候群"のことなのだろう。天秤の惨禍。僕らはそれを、首尾よく治療した。
治療した、のだろうか。
「……佑香さんね、あの後、自首したらしいわ」
「……そうですか」
「淡白ね。これでようやく、あなたは後輩の仇を討てたってことになるのに」
「仇を討ったって、淡路は帰ってこないですから」
割れた花瓶が元通りにならないように。覆水が盆に帰らないように。
失われてしまった命は、もう二度と戻ることはない。
だから、今さら僕が何をどうしたって、それこそ、あの場で佑香を殺していたって、大した意味はないのだ。
ただただ何もかもが――虚しいだけだ。
「死者の無念を晴らしたのだから、そう腐ることもないと思うけど」
先輩はそう言って、天を仰いだ。無念。
そんなものがもしも本当に宙を漂っていたのなら、きっとこの場所から見える空は、もっと濁っていただろうに。
「……そこに何があるってんですか」
「なんにも、ないのよ。だからこそ、浮かべることができるんじゃない」
「浮かべるって、何をですか」
答えは返ってこなかった。
彼女の視線の先。もう手放してしまったものを憂える空白が、そこにはあるのだろう。
想像であり。
後悔であり。
死者を悼む余裕が、そこにあるのだろう。
ただ、受け入れるには、僕はあまりにも幼すぎる。
ふらり。覚束無い足は、自然と教室に向かう。
二年六組。あの日、先輩と初めて出会った場所。
僕らの青春の、詰まった場所。
あの日と同じように、扉はあっさりと開いた。けれど、首の曲がった死体も、潜む殺人者もいない。
劇の終わった舞台には、一つの小道具すら残っちゃいない。
机の森を掻き分けて、中央まで歩いていく。
ここは、誰の席だっただろうか。それがわかっていたなら、少しは何か変わっただろうか。
屈んで、指を這わせる。"症状"の爪痕が、確かにそこには残っていた。
凹んだ床のタイルは、しかし、言われなければきっと気付くことすらない。
そうして、僕らの青春は埋もれていく。
「……必死だったんだ、きっと」
人を殺してしまうくらい。
彼女は必死に、悩んでいた。
そしてそれは、彼女だけではない。僕らはそれぞれがそれぞれの悩みを抱えて、それと折り合いをつけようと躍起になっていた。
もがいて、足掻いて、転がって、それでも痛みが引かないから、振り回した。
振り回した腕が当たってしまったところが、たまたまドミノの一段目だった。
これはきっと、そういう悲劇だ。
それがわかるから、僕の気持ちにやり場がないのだろう。
「……なにもかも『症候群』のせいよ。あなたが、あれこれと背負い込む必要はないわ。どうしようもないことだったのよ」
先輩はゆっくりと僕の傍に近寄ってくる。それこそ、体温が感じられるほど近くに。
それでも、鼓動は互い違いに鳴っていて、いつまで経っても噛み合わない。
僕らは致命的に違う人間だった。
「どうしようもなくなんか、ないでしょう。僕がもっと頑張っていれば、佑香を止められたかもしれないんです」
噛みつくように、僕は言う。
もっと早く佑香の気持ちに気づいていたなら、思いに応えられたかもしれない。
「そんなのは、結果論よ。後からどうとでも言えることじゃない」
「ええ、だから、後からあれこれと言ってるんですよ。こんなのは、独り言と変わらない」
「なら、せめて笑いなさいよ。惨禍は終わったんだから。もう悲しいことは起きないんだから。それが犠牲になった人たちに対する、礼儀なんじゃないかしら?」
うるさいな。僕は心中で吐き捨てる。
わかりきっていることを改めて言われるのが、一番苛立つのだ。
前を向かなければいけないことくらいは理解しているつもりである。
理解していて、それでも切り捨てられないから、僕はこうして踞っているのだ。
取捨選択が人生の本質であるならば、僕はそれを放棄している。全部を抱えたくて、欲張って伸ばした腕の中に何も残らなかった。
「……佑香は」立ち上がりながら、問いかける。「あいつはどんな罰を受けるんですか」
「少年法があるから、死刑にはならないでしょう。それでも期懲刑、もしかすると無期懲かも知れないわね」
「……無期、懲役」
「まあ、精神鑑定の結果がどう出るかにもよるでしょうけど、"症候群"は治療済みだしね。その辺りは私にもわからない――でもね」
彼女は一生、償うのよ。
どんな理由があれ、殺人は殺人。
ヒトがヒトを殺して、許される理由など存在しない。
ああ、と、僕は実感する。例え、死刑にはならなかったとしても、もう僕は、佑香に会うことは叶わないのだ。
放課後にデートしたり。
教室で下らない話をしたり。
みんなでカラオケに行ったり。
そんな時間はもう、流れることはない。
どうして人を殺してはいけないのか。正解のないはずの問い。その答えが、見つかった気がした。
「……私たちは事件を解決した。あの子の心の闇と向き合って、晴らすことができた。そしてもうこれ以上、奪われることはないの。それで、いいでしょう?」
たおやかな五指が、僕の頬を撫でる。聞き分けのない子供をあやすように。
先輩は、大人だ。
僕なんかよりもずっと、世界との付き合い方がわかっているのだろう、だから、妥協できるのだ。
感情が、ひどくこんがらがっている。縺れた心の糸が、幾重にも肉を締め上げ、鬱血し、赤く、赤く。
首が、絞まる。
「……そう、わかったわ」
風が絹をさらうように。ふわりと、先輩の匂いが遠退く。
僕に愛想を尽かしたのか、呆れきってしまったのか。言葉の端には、失望の気配がした。
足音が、教室の出口へ。そして、枠組みの鳥居の向こうへ抜けていく。
その刹那。心地好いアルトが、空白に載せられた。
「あなた、本当は気付いていたんじゃないの?」
背中越しにかけられたその言葉に、思わず立ち止まってしまう。
ほんの一瞬だけ、誤魔化すかどうか迷ったが、たぶんそう聞いてきたということは、先輩も勘づいているのだろう。
なら――嘘を吐いても仕方がない。
「……はい、気付いてましたよ」
「……いつから?」
「最初に違和感を覚えたのは、最後の事件の時です。有佐の死体を見たときに、髪の結び方が違った気がしたんです」
いつもとは違う結び方。
それはほんの少しのズレというか、微かな歪みだった。けれど、普段の彼女より、少しだけ髪を雑に結っているような気がしたのだ。
勿論、争っている最中に乱れた可能性もあったが、それにしては致命傷以外の怪我はほとんど無いように見えた。
だからもしかすると、とは思ったのだ。
「……なるほどね。つまり、あなたはその時点で察していながら、その先の全ての展開を許容した、ということになるのかしら?」
「許容した、わけでは」
「じゃあ、見過ごしたと言うのかしら。もっと言うなら、見殺しにしたのかもしれない」
見殺し。
確かにそうなのかもしれないな、と、僕はそれすらも受け入れた。
なるほど、こういう態度が許容だと言われたのなら、返す言葉も見つからない。
「……まあ、たぶんそこを追求しても平行線でしょう。それに、結末はどうあれ変わらなかったんだから」
これ以上は勘弁してあげる。
先輩は最後に、そうとだけ残して僕を置いていった。それは彼女なりの優しさだったのかも知れない。
或いは、反省を促しているのか。逃げ出そうとしたことに対してか、嘘をついたことに対してかはわからないが。
助かったという気持ちが半分。
罪悪感が半分。
それでも背中を追えなかったのだから、その程度の呵責なのだろう。
やっぱりこの物語で一番の嘘つきは、僕だったのだ。
「……そりゃそうか。だって、僕は――」
僕しかいなくなった教室。
一人きりの認識。
だから、今なら言葉にできる。独白であり、懺悔であり、何よりも、後悔だ。
病を根絶せんとする先輩。
全知にして最弱の同居人。
献身と諦念の後輩。
そして――天秤の双子。
最期まで姉を想った左と、最後まで自分であろうとした右。
だとするのなら、僕はなんだ。
空っぽで、虚ろで、目的も志もなく、ただ惰性に任せて流されるまま物語を揺蕩った。
仲間外れの、爪弾き。
そんな僕に、ひとつ役割を授けるとするならば。
「お前は共犯者だった。違うかよ、親友?」




