五章 その6
衝撃。
先輩に蹴り飛ばされたのだとわかったのは、床に転がってからのことだった。
遅れて、腹に響くような痛みと吐き気が喉の奥から込み上げてくる。
誰かが、鋭く僕の名前を呼んだ気がした。しかし、それに言葉を返すような余裕もない。
鼻先に胃液の匂いが香り、僕は思わず、その場で噎せ返る。
ぼやけた視界の中で、先輩の声が聞こえた。
「……残念ね、ここまで一緒にやってきたのだから、最後までやりとげてほしかったわ」
その言葉には、文面ほどに残念そうな気配はなく。
ただただ冷たく、機械的に、彼女は僕の命を奪うのだろう。
"症候群"。
ああ、なんだってそんなものが、僕らの日々に、青春に現れたのだろうか。
陰惨も凄惨も、僕らの構成要素には不必要だと言うのに。
或いは、全てが夢であってはくれないだろうか。
そう、月夜を背景に佇む彼女はこんなに美しいのだから、これが何もかも、ひとときの微睡みの中であったなら。
そうだったなら、どれほど――。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
諦観に閉じようとしていた瞳が、怒声によって無理矢理に開かされた。
それと同時に、先輩の右肩辺りに拳が突き刺さる。
何かを捻り折るような嫌な音がして、先輩の華奢な体は押し飛ばされる。
拳を放ったのは、佑香だった。
肩で息をしながら、その擦過傷と青痣が目立つ腕をだらりと下げ、震えながらも、確かに両の脚で、彼女はそこに立っていた。
「……信濃に、手ぇ出さないでよ。これは、私のだ……!」
怒り。
或いは、それ未満の未熟な何らかの感情が、彼女の光彩の中で渦巻いている。
先輩が、倒れた机や椅子の中からゆっくりと立ち上がった。
同じ目の色。
赤と赤。
狂気と狂気。
もはや目的も、願いすらも曖昧で。
それでも、衝突は避けられない。
「……まだ動けたのね。いいわ、どうせ一人も生かして帰すつもりはないから、順番が早いか遅いかだけよ」
「うるさいうるさいうるさい!! あんたに、あんたなんかに信濃を殺されてたまるか!!!」
強く握られた佑香の拳から、血液が滴り落ちた。
その雫が床に落ちるよりも早く、二人は動き出す。
佑香はもはや人間には不可能な、どこか昆虫を思わせる速度で床から壁へ。ロッカーを蹴って、天井を足場に加速する。
恐らく、"天秤"によって体の重さを取り除いたのだろう。先輩には効かなくても、自分に使う分であれば問題ないということか。
しかし、三次元的な軌道で飛来したその一撃を、先輩は事も無げに受け止めた。
二撃目も、三撃目も変わらない。腕や脚でいなすように、過不足なく、その攻撃を捌いていく。
「……単調ね。悪いけど、そんなのに付き合っている暇は――ッ!?」
間隙を突いて、佑香の脇腹を蹴り抜こうとした先輩の顔が、驚愕に固まる。
凄まじい力で蹴られたはずの佑香は、その場から微動だにしていなかった。
代わりに、先輩の脚は勢いよく弾かれる。
「……なるほど、"天秤"で自分の体を重くしたわけね」
涼しげな声で言う先輩だったが、その頬を汗が伝っていた。
予想外、だったのだろう。先輩の体も少なからずダメージを受けている。
殴られた右肩から先を使っていない所も見ると、もしかすると折れてしまっているのかもしれない。
しかし、傷は明らかに佑香の方が深い。
「はあ、はあ……あんたに、あんたなんかに信濃はやらないんだ。後から来たあんたなんかよりも、私の方がずっと――!!」
叫ぶ彼女は、もう誰が見ても満身創痍だった。
元々自傷による傷跡が走っていたその体は、もう見ていられないほどにボロボロだ。
激しいやり取りの中でどこかに引っかけてしまったのか、前髪の房がほどけ、左側の三つ編みだけがやけに綺麗に残っている。
その顔は、死んでしまった誰かに瓜二つだった。
片割れを無くしてしまった、片方の皿を失ってしまった天秤は均衡を欠き、ただ不確かに傾いでいる。
美しい光景だった。
血肉を撒き散らし。
骨皮を引き裂いて。
赤い光を交差させる彼女らが向かい合う様は、完成された一枚絵のようだ。
僕を殺そうとしていた佑香が、僕を殺させないために戦っている。
僕と手を組んでいた先輩が、僕を殺そうとしている。
奇妙な闘争の図だった。病んだ二人のやり取りには道理など残っていない。
けれど、それでいいのだろう。
不条理で。
不合理で。
不確かで。
不均衡。
それが、青春ではないだろうか?
例えそれが惨禍の中で喘ごうとも、窒息の苦しさに、酸素を求めていようとも。
僕らは、確かに青春の渦中にいるのだから。
二人の少女の叫びが、夜闇に伸びた。
それと同時に、恐らくは最後になるであろう、欧撃の応酬が始まる。
互いに足を止めて。
絶え間なく。
その整った顔を歪ませ、腫らせながら。
二人はただただ、殴り合う。
もう、僕にはそれを見ていることしかできなかった。
止めることも、庇うことも、どちらかの加勢にも入れない。
そんなことをしてはいけない。この場において僕は、ギャラリー以下の取るに足らない存在なのだから。
「……本当に、上々だな」
皮肉げに呟いたその声も、肉を打つ音に掻き消されてしまう。
そして――永遠にも覚える数秒後に、唐突にその瞬間は訪れた。
水平の蹴りを放とうとした先輩の体が、バランスを崩してぐらりと傾ぐ。
佑香は、その瞬間を見逃さなかった。一杯に振りかぶった右拳を、完全に意識の逸れた先輩の肝臓の辺りに叩き込む。
鈍い音がした。
そして、それと同時に先輩の唇が、中空に血の混じった赤い糸を引いた。
堪えることもできないまま、先輩はその場に倒れ伏し、沈黙した。
決着。
格闘の音が止めば、教室には恐ろしくなるほどの沈黙が戻ってくる。
ただ、僕と彼女の間には、窓から侵入してくる木々のせせらぎしかなく。
それは、覚束ない彼女の足取りすら、止めることはできない。
「……あ、はは……勝った、勝ったんだ……これで、信濃は、私の……」
どこかうわ言のように口走りながら、彼女はゆっくりと僕に接近してきていた。
幽鬼のように。
屍人のように。
死にながらに生きるように。
彼女はズルズルと、僕との距離を積める。
そんな彼女に対して僕は――両手を、大きく広げた。
「……なに、してるの、信濃?」
「見ての通りだ、僕の負け、お手上げだよ。煮るなり焼くなり好きにすればいいさ」
諦めた訳ではない。
死ぬのが怖くない訳でもない。
やらなきゃいけないことも残っている。
ただ、自分の全てをぶつけて、先輩すらも裏切って、伝えたいことも、何もかも話し終わって。
それでも、ここまで想ってくれる女の子が、僕のことを殺そうというのなら。
なんだか、それも悪くないと思えてしまったのだ。
「……何言ってるの、私が殺したら、死んじゃうんだよ……? もう二度と、会うことも話すこともできないんだよ……?」
「ああ、そうだな。淡路や有佐と一緒だ、もう二度と会うことも話すこともできない――」
僕は、彼女に向かって一歩歩み寄る。
そして、その傷だらけの手を取って、まだ残る柔らかさと滴る血液が感じられる指先を、自分の首元に絡めた。
「お前が、やるんだ。僕はもし死ぬのなら、お前に殺されたい」
僕はそうとだけ告げて、目を閉じた。
鎖骨に預けるようにして首に添えられた手が、震えているのを感じた。
それが、肉体的限界から来る痙攣のためなのか、それとも別の理由があるのかは判然としない。
このまま、たとえ目が二度と覚めなかったとしても。
きっと、悔いなどひとつもないのだろう。
しかし、目蓋の裏の暗闇の中で、確かにそれは聞こえた。
「――やだよ、私、殺したくないよ」
啜り泣く音。ゆっくりと目を開けば、そこにいたのは何てことはない、ただの女の子だった。
悩んで。
苦しんで。
もがいて。
欲しいものを手に入れるために苦悩していた、一途で不器用な、僕の友人がいるばかりだった。
「死んじゃったら、もう会えないんだよ。放課後デートも、買い食いも、もう二度とできないんだよ……そんなの、私にはできないよ……」
「……佑香」僕は、どうにか彼女の名前だけを絞り出した。
ああ。
どうして、もっと早くその結論にたどり着いてくれなかったのだろうか。
そうすればきっと、僕らは何も失わずに済んだのだ。何も失わず、ずっとあの心地のよいぬるま湯の中、起床前の十五分のような日々を繰り返していけただろうに。
「ねぇ、どうして、こうなっちゃったのかな。どうして、私は間違えちゃったのかな。どうして、私は――こんなこと、しちゃったのかな」
大粒の涙を流しながら、彼女は後悔の言葉を口にし続ける。
子供のように、何度も目を擦る――そこにはもう、あの不気味な眼光は微塵も残ってはいなかった。
「ねえ、信濃。覚えてる? 春にさ、最初に話しかけたのは私だったんだよ。他の誰でもなく、私が、信濃を――」
舌足らずな子供のように。
追い付かない感情を、辿々しい言葉に乗せながら、どうにか伝えようとしている。
そんな彼女を僕は――静かに抱き寄せることしかできなかった。
僕たちは間違う。
未熟ゆえに。或いは、未完成ゆえに。
ああ、だとするのなら。
カミサマはなんて残酷なことをするのだろうか。
彼女に、僕に裁きを下したカミサマは、一体どこにいて、どこから僕たちの不心得を咎めているのだろうか。
胸の中で静かに震える彼女を、慰めるように暖めることしか、僕にはできない。
僕は普通の高校生で、身近な誰かの想いにすら気がつけない、愚鈍なのだから――。
「――どうやら、上手く行ったみたいね」
そんな佑香の背後で、立ち上がる影があった。
口の端から血を流しながら、ゆっくりとその面を上げたのは、山城先輩だった。
重傷なのは間違いないが、先輩もまた、命に別状はないようだ。
「……生きてたんですか、先輩。死んだフリなんて意地が悪いですよ」
「ご生憎様、意地悪なのは自覚しているわよ。それよりも、今はその子」
そう言って、先輩はゆっくりと佑香に手を翳した。
一瞬、トドメを刺そうとしているのではないかと懸念したが、どうやらそうではなかったようだ。
「……切除、開始」小さく、通りのいいアルトが聞こえる。
先輩がしばらくの間そうしていると、彼女らの目から漏れていた光と同じ色の、赤くぼんやりとした輝きが掌から溢れ、そのまま、佑香の背中に吸い込まれていく。
かと思えば、先輩の右手がズルリと、佑香の肉の中に潜り込んだ。
しかし、血が溢れることはなく、皮の一枚すらも破れていない。
まるで、背中にもうひとつ口が開いたかのように、彼女の前腕までもを飲み込んだ。
一体何を――と、驚愕する僕を尻目に、先輩は心臓の辺りを何度かまさぐったかと思えば、勢いよく腕を引き抜く。
それと同時に、佑香の体が重さを増した。
"天秤"を使ったわけではない。
きっと、彼女の意識が落ちたのだろう。
脱力した体をゆっくりと床に横たえながら、僕は先輩に抗議の視線を送った。
「……何だ、殺さなくたって済むじゃないですか」
「普通は、こんなに上手くいかないのよ。あなたが体を張って、彼女の心を受け入れたからこそ、"症候群"と彼女を結びつける気持ちが薄れたの」
「それで、治すことはできたんですか……?」
先輩は、それを聞くと、右手を額くらいの高さまで、ぎこちない動きで持ち上げた。
「ええ、この通り。私の"症状"によって、確かに切除できたわ。もっとも、あなたにはわからないでしょうけど」
確かに、僕にはその五指に何かが握られているようには見えなかった。
だけど、例え見えなくったって、僕には。
「……わかりますよ、もう、終わったんだって」
穏やかに胸を上下させる、佑香の顔を眺めながら、僕はそう呟いた。
憑き物が落ちたかのような。
しがらみから解き放たれたかのような。
終わり。
悲しいお話は、もう、これで終わり。
一人の少女の狂ってしまった青春の物語は、こうして幕を閉じるのだ。
ならば、それまでに失われたものが戻ってこなかったとしても、僕たちはもう、それを取りに帰ることはできない。
もう先に進むしかないのだ。
七月六日――長い長い痛苦の夜は、こうして終わったのだった。
――その後にも、僕らの人生は続いていくのだが。
その絶望に気がついたのは、もう少しだけ、時間が経ってからのことだった。




