五章 その5
***
それは、神話的な光景に見えた。
爛々と輝く、四つの目玉。月明かりが青白く照らす部屋の中でも、それらが互いに向かい合っている。
吹き込む風が、先輩の髪をふわりと靡かせた。
僕が彼女と初めて出会ったあの日のように、薄墨の如く伸びるその髪は、夜の闇に同化し、まるで一羽の鴉が翼を広げたようにも見えるだろう。
山城綾奈。
林間から漏れる月光を背負いながら、彼女はほんの少しだけ、口角を上げた。
「――よかったわ、信濃くん。しっかりと自分の仕事はしてくれたみたいね」
彼女はそう言いつつ、窓枠を蹴って教室に降り立った。
まるで踊るように、舞台に上がる女優のように。
優美な立ち振舞いで、僕と佑香の間に、割り込むようにして立った。
「……てっきり、私が来る頃には肉塊になってしまっているかと思っていたわ」
「まさか、そんなはずが無いじゃないですか。僕だって、それなりに分があるからこうしようって言ったんですから」
嘯きながら、僕は脚に力を込める。
いつの間にか、体に重さは感じなくなっていた。佑香が動揺し、"症状"を解いてしまったのか。
あるいは――もっと殺したい相手を見つけたのか、だ。
ともあれ、上手く行ったようだ。
僕がこんな回りくどい方法を取ろうとした理由は、主に二つ。
ひとつは、犯人を逃がさず、確実に山城先輩と一対一の状況を作り出せるようにすること。
そしてもうひとつは――残念ながら、失敗してしまった。
「……やま、しろ……せんぱい」
うわごとのように、佑香が呟いた。
先程までの狂気染みた笑みは、完全にナリを潜めてしまっていた。
その表情は能面のように色を失い、そしてすぐに、憤怒に引き締められた。
ゆっくりと開いていく口から、声が漏れる。這い出してきた割れた音が、静かな校舎を満たしていく。
「う、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
頭を抱えながら、佑香は吼える。バリバリと頭皮を掻き毟るその指先には、赤いものが付着していた。
息を荒げ、フラフラと揺らぎ。それでもその両目は、しっかりと先輩の方を睨み付けている。
「――お前は、私は、おまえが、いなければ……!!!!!」
胡乱な調子で呟いた佑香は、そのまま跳ねるようにして、地面を蹴った。
凄まじい速度で飛来した右拳を、先輩は事も無げに横合いに捌く。
それと同時に放った鋭い前蹴りが、佑香の鳩尾に突き刺さった。
盛大に机と椅子を倒しながら、彼女は教室の床に転がる。
先輩はそこにゆっくりと近付きながら、どこか余裕を覗かせる表情で口を開く。
「あら、不思議ね。私とあなたにはそんなに関係はなかったはずだけど。少なくとも、恨まれるような筋合いなんてないと思うわ」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい!! お前に無くても、私にはあるんだ!!!」
佑香は、手近なところにあった机を投擲した。
けれど、先輩の長い脚で蹴り払われ、そのまま間合いを詰められる。
彼女らは互いに手を伸ばし、そのまま互いの肩を掴み合った。
爪が、その柔肌に食い込んでゆき、やがて血液が滴り始める。
まるで、漫画のワンシーンでも眺めているかのような応酬。
それは未だ終わりを見せず、二人とも互いに背後に飛び退くようにして距離を取った。
――と、そこで唐突に、佑香が空中に手を伸ばす。
何かを載せ換えるような動作。それには、見覚えがあった。
「……まずい! 先輩、"症状"が来る!」
"天秤"。
見る限り先輩の方が優勢に見える現状も、一手でひっくり返されかねない。
いくら先輩が超人的な身体能力を持っていたとしても、あれに対抗するのは難しいだろう。
僕は反射的に二人に駆け寄ろうと、脚を一歩踏み出して。
そこで。
「――大丈夫よ。私、そういうの効かないから」
僕の動きを遮るようにして、彼女は駆けた。
重さなど微塵も感じさせぬ、軽々とした様で伸びる脚はぐんぐんと速度を増す。
そして、鞭のようにしなったかと思えば、二発三発と佑香に向かって打ち込まれた。
「がっ……なん……でっ……!!」
「さぁて、なんでかしらね?」
驚愕に顔を歪ませながらも、佑香はそれを受けることができていた。
そんな彼女に、山城先輩は止めとばかりに膝を叩き込む。
病んだ影が、たまらずその場に倒れ伏した。
先輩はカツカツと靴を鳴らしながら、そこに近付いていく。
目元から漏れた赤い光が、空中にぼんやりと漂い、消えていった。
それを見て、僕は。
僕はようやく、気がついた。
「……まさか、先輩は」
思えば、ヒントはいくつもあったのだ。
どうして先輩は、佑香に対抗できるだけの身体能力を持っているのか。
どうして先輩は、対峙したときに佑香の"症状"に気付かなかったのか。
――どうして先輩の目は、あんなに怪しく、真っ赤に輝いているのか。
疑問には思っていたはずだ。その違和感に目を向けていなかっただけで、答えは目の前にあった。
「――そうよ」先輩は、僕の方に視線だけを寄越した。
何もかもが、粘度を増した空気の中で踠くようにして動く中、先輩の解像度だけが異様に高い。
照準が合っている。
ピントがズレていない。
それを理解しているかのように、先輩はどこか誇らしげに、或いは諦観したようにそこに佇んでいた。
そして、自己紹介でもするかのように、そのよく通るアルトで高らかに宣言する。
「私も"症候群"に罹患しているの。ずっと、もう十年以上前から、ね」
罹患。
つまりそれは、目の前の佑香と同じ。
淡路や有佐を殺した犯人と同じ殺人衝動に侵され、心の闇を抱えているということ。
予想ができていたとしても、少なからずその事実は僕の心に衝撃を与えた。
心臓が場違いなくらいに心拍を増やしているのがわかる。
「……でも、先輩は誰かを殺しはしてないだろ。"症候群"の患者は、殺意が抑えきれなくなるって話じゃないのか?」
「ええ、そうよ。だから今も、私は殺したいほどに憎んでいるわ――」
先輩は、事も無げにそう口にして、立ち上がろうとしている佑香に目をやった。
その表情は、あまりにも酷薄で。
そして、何より温度を感じさせぬほどに冷えきっていた。
「――私が殺したいのは、"症候群"そのものだもの」
それは、どういう意味だろうか。
"症候群"を殺す。
先輩は、ずっと言っていた。病に罹った犯人を見つけて、治してあげなければいけないと。
けれど、佑香と話せば話すほど、彼女の思いの内側を知れば知るほど、それが言葉通りの意味には聞こえなくなってくるのだ。
果たして。
果たして、心の奥底に根を張ってしまった病の根元を、それだけ切り取ることはできるのだろうか?
そこまで思考すると同時に、僕の脚は動いていた。
彼女らのような鋭さは無い、もつれて、転びそうになりながら、半分這うような足取り。
見るに耐えない、不格好な動きで僕は――先輩の背を、追い越した。
「……なんのつもりかしら?」
突如として眼前に飛び出した僕に、先輩は怪訝そうな視線を寄越した。
全身の血が冷えるような感覚。腹の奥が、空洞になってしまったかのように戦慄いている。
けれど、それらを無理矢理な吸気で黙らせて、僕は先輩の方に向き直った。
「なんのつもりもなにも、見ての通りですよ。先輩、佑香に何をするつもりですか」
「……そこを退きなさい、信濃くん。早く始末をつけなければ、取り返しのつかないことになるわ」
「始末って何ですか、先輩は僕の友達をどうしようって言うんですか」
ああ、と。
口にしながら、自分でも訳のわからないことを言っているとは思う。
それでも、僕は。
僕の中のカミサマに従って、ここを退いてはいけないのだ。
「……わかっているの? ここで逃がせば、その子はきっと、あなたを殺すわよ。そして、最後は彼女自身も」
「……わかってますよ、そのくらい」
正直、こうして佑香に背を向けることに、恐怖がないわけではない。
今の彼女の力で頭にでも一撃食らえば、僕なんかの脆弱な命は簡単に弾け飛ぶだろう。
だからここは、全て先輩に任せるのが正解なのだ。最初から、そういう話だったのだから。
しかし。
「……先輩、僕は、もう誰一人亡くしたくないんですよ」
淡路は、いい後輩だった。
こんな僕を慕ってくれて、助けてくれて、つるんでくれて、一緒にいてくれて。
けれど、もう二度と彼女が僕を待っていることはなくなってしまった。
有佐とだって、もっと仲良くなれたはずなのだ。
姉と違って内向的に振る舞っていた彼女と、もっと僕は色んなことを話したかった。
けれど、もう二度と僕らが言葉を交わすことはなくなってしまった。
そして、もしここで佑香まで亡くしてしまったのなら、もうきっと僕は立ち直れない。
僕の青春は枯れ落ちてしまう。
だから。
「すんません、先輩。僕は、ここを退くつもりは無いです」
「――そう」
先輩は。
山城綾奈は、驚くほどに冷たい声でそう言い放った。
そして、一度だけ、優しく目を伏せて――。
「――じゃあ、あなたからやるしかないわね」




