一章 その2
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「それ、たぶん三年の山城先輩ですよぅ」
ティーポットに茶葉を押し込めながら、一コ下の後輩である淡路蜜柑は当たり前のようにそう口にした。
ここは保健室。今は授業時間であるため、僕たち以外には誰もいない。
授業をサボった僕と、保健室登校の彼女。
その他には養護教諭すらもおらず、ただ独特な消毒液の香りが満ちていた。
そんな中、一対に並べられた革張りのソファの片方に僕は腰掛けていた。この位置からでは、彼女の表情は伺い知れない。
「山城先輩……? 淡路、お前知ってるのか」
あっさりと返ってきた答えに、僕は驚きを隠さずに言った。世間話の延長線のようなものだったので、まさか回答が得られるとは思っていなかったのだ。
しかし、彼女は特に驚く様子もなく、「そりゃあもちろん」と言葉を続けた。
「先輩こそ知らないんですか? 有名人なんですよぅ。学校で一番の美人さんなんですから」
「美人……か、確かに綺麗な人ではあったな」
呟きながら、僕はぼんやりと、昨日のことを思い出す。
夕暮れにスラリと伸びるシルエットも。
オレンジ色に照らされた横顔も。
夕景に靡くその髪も。
そして何より、彼女が纏う雰囲気そのものが美しいと思った。まるで完成された絵画のような、厳粛で侵し難い清廉さがあったように思う。
なのに。
「でも、妙ですねぇ」先に進もうとした僕の思考を遮るように、淡路が首を傾げた。
「妙? 何がだよ」僕は素っ頓狂な声で思わず聞き返す。
「いえ、そもそも山城先輩って、あんまり下級生とは関わろうとしないんですよぅ。あの人が有名なのも、そういう触れがたい雰囲気が理由の一部というか」
「……そうなのか。じゃあ、どうしてあの人はうちの教室に……?」
わかりませんよぅ、と、ぼやきながら、淡路は湯気の立ち上るティーカップを差し出してきた。
受け取ってみれば、指先から伝わってくる温かさと、鼻を抜ける香草の香りが胸のわだかまりをじわりと溶かすような感覚がある。
「私も、実際にお話ししたことはないんです。ここに来た子達が、噂話をしていたのを聞いただけなんですよぅ」
そう言いながら、彼女も向かいに腰を下ろす。
茶色みがかったボブカットの髪は所々が跳ねている。彼女の小柄な体格も相まって、どこか猫科を思わせるような愛嬌があった。
眼鏡の縁は熱を帯びたような橙色であり、レンズ越しに見つめる視線が、仄かに色づいたように錯覚してしまう。
「……そうなのか。気にはなるけど、そればっかりは本人にしかわからないからな」
口にしながら、ぼんやりと思い出す。
先輩は誰かを探しているようだった。斜陽に沈む教室の中、彼女が紡いだ言葉を、僕は確かに聞いている。
一体誰を探して、わざわざ下級生の教室を訪れたのか。少なくとも、尋ね人が僕ではなかったことだけは確かだが。
……考えたところで、答えは出ない。あの時に聞ければ一番良かったのかも知れないが、もう既に、僕はその機会を逸してしまっている。
と、そこまで考えたところで、小さくため息が聞こえた。顔を上げれば、淡路がほんの少しだけ不満そうに、頬を膨らませている。
「……久しぶりに遊びに来てくれたと思ったら、それを聞きに来たんですかぁ?」
「ん……と。まあ、もちろんそれだけじゃないぞ。淡路にも最近会えてなかったからさ、顔見たいなって」
僕はなんとなくバツの悪さを感じながら、誤魔化すようにカップに口を吐けた。
先ほどは鮮やかに感じられた茶葉の風味が、今はどこか、取って付けたように薄っぺらく感じる。
「もう……まあ、いいですけど。頼ってもらえてるのは嬉しいですし、私も先輩の顔見たいなって思ってましたし」
「お、脈アリってことか?」
「たった今止まりましたよぅ。午後十四時四十七分、ご臨終です」
「心停止するほど嫌なのか……?」
そこまで嫌われていたとは意外だった。
後輩とはそれなりにいい関係を築けていると思っていただけに、かなりショックだ。思わず頭を抱えたくなるが、これ以上失望されるわけにもいくまいと踏みとどまる。
「まあ、冗談はさておき」淡路がカップを手に取る。「山城先輩は諦めた方がいいかもですよぅ」
「諦める? 何でだ?」
「だって、あの人すっごい人気あるんですよぅ。一部では、ファンクラブもあるとかないとか」
なんだそりゃ。
僕は堪えきれず、口に出してしまった。
一人の生徒にファンクラブがあるだなんて、まるで一昔前の漫画のようだ。
「というか、触れがたい空気があるとか、後輩とつるまないとかなんとか言ってなかったか? そんなに慕われるもんかね」
「まあ、みんなたぶんそこまで気にしてないんだと思いますよぅ。内面まで気にできるほど、落ち着いて他人のこと見てる人なんていませんから」
「そんなもんか。まあ、偶像なんていつだってそうだもんな。隠れてタバコ吸ってたって、男遊びが過ぎたって、見てくれがよければ許されるもんだ」
「先輩、考え方が荒んでますよぅ」
おっと、と慌てて口を噤む。
貫く覚悟もないってのに、厭世はいつだって口を突くものだ。
斜に構えるのも大概にしなければ、いつかは吐いた言葉に首を絞められる。或いはそんな手の込んだ自殺が許されるのなら、世界はもっと平和なのかもしれないが。
「……あ」
と、そこで不意に淡路が視線を上げた。何かを思い出したかのように眉を上げ、そして、一瞬の後に目を伏せた。
「……どうしたんだ? もしかして、本当に先輩、タバコ吸ってるのか?」
冗談めかした僕の言葉に、淡路は大袈裟に首を振った。オーバーな動作とは裏腹に、視線が真剣さを帯びているのが、なんだか微笑ましい。
「……いや、そんなわけないですよぅ。ただ、いっこだけ、山城先輩には悪い噂があるんです」
「悪い噂? タバコじゃないってことは、男遊びの方か?」
そっちもちがいますよぅ、と再び彼女は首を振る。
「いや、私も聞きかじっただけですし、本当のことだとは思ってないんですけど、ただ……」
「なんだよ、やけに焦らすじゃんか。そんなに酷い噂なのか?」
淡路は言うかどうか、しばらくの間迷っているようだった。
しかし、やがて意を決したように僕の方に視線をやると、その薄い唇をゆっくりと開いた。
「……実は、山城先輩は――」
それと同時に、終業の鐘が鳴った。
天井のスピーカーから降ってくる、ノイズまみれの割れた音。
彼女はそれが止むのを待ってから、僕にはっきりと聞こえるように、一拍の間を置いてから、その先を続けた。
「――"あの事件"に、関わってるらしいんですよぅ」