四章 その4
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先輩が到着したのは、僕が連絡してから二分ほどが経過してからだった。
ガラガラと、最早憚ることなく、先輩は扉を開ける。
そして、死体のすぐそばに腰を下ろした僕のところまで歩いてきた。
カツカツと無遠慮な足音が、行き場を失ったかのように途絶える。
ただ立ち止まっただけなのだろうが、それがひどく不吉に思えた。
「……まさか、もう既に犯行が行われていたなんてね。私たちは、今回も間に合わなかった……」
僕の背に、そんな言葉がかけられる。けれど、僕には振り返る余裕もなかった。
ただ、"彼女"だったものを見下ろしている。
乱れた前髪、閉じられた瞳は、きっと猫のようなアーモンド型。それは、僕のよく知る顔だった。
「……対馬、有佐さんね。目立った外傷はないようだけど、毒か何か飲まされたのかしら?」
「……いや、それは違うと思いますよ」
僕は、彼女の首元を指した。そこには、くっきりとした索条痕が残されている。
月光に照らされ、浮かび上がった肌の色は判然としないものの、ほんの少しだけ鬱血しているようにも見えた。彼女は、首を絞められたのだ。
「絞殺……今回も、そうなのね。犯人は近くにいなかったの?」
僕は首を横に振った。確かに、この体育館に入っていく人影こそあったものの、定かではない。
最早今となっては、影法師か何かを見間違えたのではないかとすら思えるほどだ。
「……絞殺には時間がかかる……そうでしたよね? それなら、犯人はわざと、僕をここに誘い込んだんでしょうか?」
「そうと断言はできないわね。前回の淡路さんの例もあるわ。もしかすると、殺された後に運び込まれたのかも」
先輩は、倒れ込んだ有佐のすぐそばに屈み込み、何事かを見聞しているだった。
僕はその背中を、注意深く見つめる。
僕は、未だにドクドクと、過剰なほどに脈打つ心臓を押さえつける。
「……着衣と、髪が乱れているわ。多少の抵抗はしたようだけれど、ダメだったのね」
そう口にして、先輩はもう動かなくなった有佐の髪に指を通す。
死人の頭髪は、恐ろしいくらいに冷たくて、まるでビニール製の作り物なのではないかと思ってしまうほどだ。
真っ暗な体育館の中、窓から差し込んだ光に照らされたこの場所は、まるでなにかの舞台の上のようだった。
そこで彼女が出演した演目は、恐らく悲劇だったのだろうが。
演者までもがその一部になることは無いだろうに。
「……ずいぶん、落ち着いているのね」先輩は見聞の手を止めて、立ち上がる。
「淡路さんの時はあれだけ取り乱していたから、今回もてっきり、我を失うほどに悲しんでいるものだと思ったわ」
「……別に、悲しくないわけじゃないですよ。まだ、理解が追い付いてないんです」
口にしながら、僕の脳裏に今日の有佐の姿が甦る。
はしゃぐように跳ねる度、揺れる髪。
飛び抜けて上手くはなかった歌声。ハンバーグプレートを注文するときの、照れた顔。
全てもう、二度と見ることができない。それらは淡路の時と、なにも変わっていないはず――。
――なんて、本当に思っているのだろうか?
僕は唐突に湧き出してきた心中の苦味に、思わず眉を寄せた。
偽り。紛れもなく、僕は自分を偽っている。
僕は知っているはずだ。
今回の喪失は、淡路の時とは違う。
同じだけど、違うのだ。
だから冷静でいられる。この悲劇を、俯瞰して眺めていられるのだ。
「そう、どちらにせよ、冷静なのはいいことよ」
先輩はそれ以上の追及をしてこなかった。一見すれば冷酷にも思えるが、これは先輩なりの誠意なのだろう。
あらゆる命に貴賤はなく。
公平かつ平等に扱われている。
それゆえに、彼女にとっては数字でしかない。
"四人目"という以上の認識を、先輩はこの死体に持っていないのだ。それは決して悪いことではない。
僕の感情を抜きにすれば、受け入れられることだ。
そんな思考など知らぬまま、先輩は冷たい調子で続ける。
「……ここまで、私たちは"患者"を捕まえられなかった。恐らく、次の犯行は明日行われるわ。そして、そこでも止められなかったのなら、その次は――」
きっと。
溢れた殺意は、犯人自身を殺す。
そうなってしまうのが、最悪のバッドエンドだ。
何があったとしても、それだけは止めなければならない。
例えもう、これが手遅れであり、終わってしまった物語だったとしても、僕はそれだけは許してはいけないのだ。
だって。
だって、僕は。
「……先輩、先輩に二つ、伝えなきゃいけないことがあります」
意を決して、それを口にする。
今まで朧気だった、予想だとか疑念だとか、そんな名前の揺らいだ気配が、じわりと輪郭を帯びていく。
いや、輪郭を帯びたのは、ここに来てようやくだ。
見えなかったのではなく、見ようとしていなかったのだと、そう、思い知らされた。
だから、終わりにしよう。
終わりにしなければならない。
他の誰でもない、僕の手で。
「……何かしら?」先輩は明らかに、怪訝そうな顔をしていた。
当然だ、自分より明らかに愚かな後輩が、唐突にそんなことを言い始めたのだから。
ゆえに、僕は続ける。そのまま、愚かなままで。戯れ言だと思うのなら思ったまま、聞き流してもらっても構わないと言うように――。
「……まず、ひとつめ。明日、殺されるのが誰なのか、僕にはわかっています」
言い切るかどうかというところで、先輩の切れ長の目が大きく見開かれた。
彼女の綺麗な唇が、疑問の言葉を紡ぐ前に、僕はその先を口にする。
「そして、もうひとつ。僕には全てわかったんですよ、この事件の、犯人が」
そこまで口にしたところで、先輩は用意していた言葉を失った。
驚愕する彼女の顔は、思ったよりも見応えがある。
遠回りしてしまった。そして、そのせいで何もかも失ってしまったように思える。
加えて、今から僕は、僅かに残ったものまで全てを燃やし尽くそうとしている。
でも、それでいい。
もう、こんな膿んだ日々に、未練はない。先に進むために、僕は全てを焼き払わなければならない。
さあ、やろう。
この悲しい舞台に幕を引こう。
全ては明日の夜。
僕らの天秤は――確かに、傾くのだから。




