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青春惨禍症候群―壊れた日々と、天秤の君―  作者: 文海マヤ
四章 「獨」
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四章 その1

『やあ、ひどい顔だ。君は過去を見てきたんだね』


 帰宅した僕を見るなり、伊予はまっすぐにディスプレイを突き出してきた。


 あまりにも鋭いその切っ先を、払いのける力すら、今の僕にはない。


 浅海神社からの帰路を、僕はほとんど死人のように歩いた。


 どこをどう通ったのかもろくに覚えていない。気付けば、玄関の前に立っていた。


 カミサマが僕をひょいとつまんで、この場所に置いたのだと言われても、もしかすると今なら信じかもしれない。そのくらいには、蒙昧で茫漠とした帰り道だった。


 なんて、与太話だ。


 帰り着けば、いつものように居間の特等席に腰かけた伊予は、珍しくノートパソコンを開いていた。

 画面に表示された文字列は僕の知らない言語で書かれており、解読することはできない。


 数十ヵ国語を軽々と解する彼女のことだ、きっと何か難しい論文でも読んでいたのだろう。


 それに対しても、僕は大した感慨を覚えなかった。いくつもの言語などわからなくていい。


 今はたったひとつの、たった一人の感情が理解できたのなら、僕は。


「見てきたのは過去じゃなくて、自分の過ちだよ。僕は、僕の愚かさを再確認してきただけだ」


『なら、過去で合っているよ。過ちは未来にはない。私たちが悔いることができるのは、常に過ぎた時間のことだけだからね』


「……そんなのは、屁理屈だ」


 僕も、いつものように彼女の向かいに座る。ふと、背後の時計に目がいった。

 いつの間にか時間は午後五時を回っていたが、夏の日は高く、太陽は僅かに傾いたくらいだ。


『なんとでも言えばいいさ。それでも君に必要なのは、戯れ言とたわ言だからね』


「……決めつけるなよ、そんなの。僕は――」


『誠実に生きているつもりだった?』


 伊予は、僕の言葉を制するように、素早くそう打ち込んだ。


 僕は思わず目を逸らす。彼女の色素の薄い瞳は、まるで何もかもを見透かしているようだ。


 僕の弱さも。

 脆さも。

 乏しさも。


「悪いかよ、それで」


 僕は底までを見抜かれる空寒さを振り払うように言った。

 そうしなければ、折れてしまいそうだった。


「ああ、そうさ。僕は弱い、弱いし、脆い、乏しい、危うい。それでも、僕は僕を貫いているつもりだし、そこに関しては、誠実であるつもりだ」


『そう。でも、君は悔いているよね。君が君であることを。君が君であるために、傷つけてしまった誰かのことをさ』


「――だったら!」


 自分でも驚くくらいの大声量が、知らぬうちに転げ出た。喉が削れるような感触と、それを裏付けるような血の味がじわりと口内に広がる。


「なんだって言うんだよ。わかるわけないじゃんか、そんなの。あの時どうしたらよかったかなんて」


 握り締める手に力が籠る。


 自分の掌を握り潰してしまうほどに強く。

 それは行き場を失った怒りと悲しみ、或いはそれらに類似するもっと明度の低い何かで、僕はその名を知らなかったから、ただ、手の中の虚空が潰れる音を聴いていた。


 例えばもし、僕が握るのが僕の心臓であったなら。

 この憤りすらも、ここで仕舞いにできたかもしれなかったのに。


 なのに、止まらない。一度堰を切ってしまった感情は、止めどなく流れ続ける。


「他人の感情なんてわからないから、僕は僕であろうとしたんだ。なのに、それも違うって言うのなら、僕は」


 僕は。

 どういう風に生きて、どういう風に選べばいいのだろう。


 正解がわからない、たった一歩の踏み外しで、奈落に落ちてしまうこの道を、どうやって。


『みんなが幸せになれる選択肢なんて、ないんだよ』


 伊予はそれでも、眉ひとつ動かさない。


 彼女はいつも通りだ。何が起きても対岸の火事。

 彼女には関係がなくて、どう足掻いても当事者にはならない。


 爪弾きの、部外者。

 観客。

 傍聴者。


 だから彼女は――変わらない。


『私たちはね、生きている限り傷つかないといけない。奪い合わないといけない。騙し合わないといけない。どんなに綺麗事を言ったって、結局他人は他人で、君とは別だ。どれだけ近付いたって、これはもうどうしようもなく決まっていることなんだ』


「だから、諦めろってことかよ」


 伊予は静かに首を降った。彼女の小さな頭が揺れる度に、白銀の髪がふわふわと頼りなく舞う。


『諦める、とは少し違うね。割りきるしかないんだよ。正しいことが間違えていて、間違っていることが正しいなんてことは往々にしてあるものだ』


「……人生は結果が全てって言いたいのか?」


『まあ、そういうことだね。だから、深く考えても仕方がないんだよ』


 と、そこで端末を置いた彼女は、キーボードを叩き始めた。

 普段のか弱さからは想像もつかないような高速の打鍵は、どこかシュールでもあったけれど。


 僕は笑えない。

 笑えるはずがない。


 そのくらいに、追い込まれている。少なくとも、爪弾きの彼女に縋らなければならないくらいには。


『わかっているんじゃないかな、君も。事態はもうここまで進行したんだ。死者は甦らないし、汚れた手は濯げない。君がするべきことは、私に八つ当たりすることじゃないんじゃないかな?』


 正論だった。

 何一つとして間違いがない。もうここまで来てしまったのだ。

 後悔しても遅い、止めたとしても手遅れ、何もかもがもう、手の施しようがないほどに膿んでしまっている。


 完膚なきまでに壊れてしまった後だ。


 焼失にも似た、不可逆の扉。僕らはもう、その向こうにいる。


「……なら、僕は」


 自問。答えは口にするまでもない。

 最初から、僕のやらなければならないこと決まっていた。わかっていた。何もかもが詳らかにされていた。


 だから、僕がするべきことはたったひとつ。

 最初から、たったひとつ。


『……私には、君の選択に口出しする権利は無いけどさ』


 伊予は、そこでノートパソコンを閉じた。

 そして、蛞蝓(なめくじ)のような()()()()()()とした、あるいは恐る恐るの動きで椅子を降りる。


 子供のように小さい足先が床について、右、左。

 椅子の上に残っていた長く真っ白な髪の毛が、まるで液体のように滑り落ち、彼女の後に続いた。


『君の中でももう、決まっているんじゃないかな』


 去り際、伊予は最後にそう残していった。僕を追い抜いて数秒、背後で扉の閉まる音がする。

 自室に戻ったのだろう。ということはつまり、僕に話すべきことはもう無いと判断したのだ。


 一人ぼっちになったリビングで、僕は考える。


 後悔は先にも後にも立たず、終わってしまったあらゆる出来事は、既に轍となって僕の後ろに残るばかりだ。


 僕の考えが正しいとして。

 そして、"あいつ"が間違っているとして。


 果たして僕に、その間違いを指摘する資格があるのだろうか?

 自分が間違い続けていることを気づくこともできないままでここまで来てしまった僕に、それが許されるとでも思うのだろうか?


 いや、きっと、僕は――。


 ――そこまで考えて、通知音。


 スマートフォンの鳴動が、僕の思考を縫い止めた。


 そして、同時に全てを真っ白に塗り潰す。血液が冷え、喉の奥までがカラカラに渇いて痛みを発した。


 パクパクと、口を動かすので精一杯。

 "思わず"の一言すら紡げずに、肺から漏れ出る呼気がひゅるひゅると抜けていった。


 紡ぎたかったのは、たったの四音だ。


 どうして。


 どうして。


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