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青春惨禍症候群―壊れた日々と、天秤の君―  作者: 文海マヤ
三章 「惨」
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三章 その8

 ***



 鳥居をくぐると同時に頬をくすぐった風は、かつてのような清々しさをどこかに置き忘れてきてしまったようだった。


 家で休むことを了承してくれた先輩と別れた僕は、その足で浅海神社に向かっていた。


 バスを使えば早いのだろうが、財布の中が少々心許なかった。それに、考えをまとめたかったのもあったので、徒歩で行くことにしたのだ。


 赤藤通りの奥から浅海神社までは、歩いて一時間以上かかった。

 普段ならその半分ほどで歩いていけるはずだったが、何故か、いやに時間がかかっていた。


 連日の疲れが原因か、もしくは、単純に僕の足が遅かったのか。


 それとも。

 何かを認めたく、なかったのか。


「……たぶん、その全部なんだろうな」


 静かな境内に、僕の独り言だけが響く。

 辺りに人の気配はない。どこかに神主さんなんかはいるかもしれないが、少なくとも、目の届くところにはいないようだった。


 それでいい。

 これが僕らの物語であるのなら、他の誰かの存在なんてのは無駄でしかない。


 聞くものも。

 見るものも。


 ましてや触れるものなんて、一人だっていなくていい。


 もう触れられなくなった僕らの悲しみを、哀れむことすらして欲しくない。


 だってそれは、僕だけの特権なのだから。僕だけの悲しみなのだから。他の誰かになんて、くれてやるもんか。


「それも、わがままだ」


 ひとつだけ呟いて、僕はまっすぐ、いつもの場所に向かった。


 足取りに迷いはない。だって、何度も歩いた道だ。何度もなぞった手順だ。


 本殿の裏。放課後に駄菓子や飲み物を買って集まった、僕らの小さな秘密基地。

 そうでなければ、あるいはそこだけが、僕らの世界だったのかも知れない。


 知らない。

 知ることはもう、できない。


 けれど、そこに何が待っているのか、僕が何を悔いるべきなのか。


 その痛みの形だけは、頭痛がするくらい鮮明にわかっていた。


 木の枝を踏み折り、石段を跨ぎ、僕はそこに向かう。


『信濃。君はもっと人と関わった方がいいんじゃないの?』


 唐突に、どこかからそう聞こえた気がした。

 それは思い出の残滓。かつてここで交わされたやりとり。その再上映。


 僕らの失ってしまった時間を、なぞり直すためのリバイバル。


『将来とか、考えらんねぇよな。今を生きるだけで精一杯だし、今を生きるだけで楽しくて仕方がねぇんだもんな』


 社の陰で、親友がそう言った。

 どこかを見つめる長身はもはや、僕の網膜に残る影でしかなかったけれど、彼はかつて、確かにそこにいた。


 僕らはここにいた。

 ここで確かに、繋がっていた。


『信濃ぉ、国語のテストさぁ、できた?』


 思い出が語りかけてくる。

 僕は応えない。


『おっしゃー、一番乗りぃ。信濃、今度なんか奢れよ』


 思い出が追い抜いていく。

 僕は応えない。


『信濃、理系と文系どっちにした?』


 僕は応えない。


『おいおい、友達だろうよ。写させてくれって、な?』


 僕は応えない。


『信濃、元気なくない? どうしたの?』


 僕は応えない。


『明日もまたここで、ね』


 僕は。

 僕は。


 僕、は。



『ねぇ、信濃。これからも一緒だよね』



 ぴたり、と。


 僕は、足を止めた。そこは、いつも佑香が座っていた場所。

 石段のすぐ後ろに立つ、崩れかけの灯籠に凭れて、彼女はよく天を仰いでいた。


 あの時。

 何気なくそう口にした彼女に、僕はどんな言葉をかけるべきだったのだろうか。


 それこそ、一番わからない。わかるはずもない。あの時点ではまだ、僕らの関係は永遠だと思っていたのだから。


 僕は永遠だと思っていて。

 彼女だけが破綻を知っていた。


 因幡が気づいていたかどうかはわからないが、知っていても知らなくても、彼はそれを僕らに告げはしないだろう。


 だから、間違えた。


 怠惰に、漫然と、僕は繋がりを信用していた。

 それが間違いだったというのなら。


「…………やっぱりそう、なんだな」


 屈み込んで、僕は石灯籠の表面に触れた。

 彼女がいつも、背を預けていた辺りに、鋭利なもので傷つけたと見られるいくつもの線が走っていた。


 指でなぞる。それはメッセージ。


 僕らにしかわからない、独白か、そうでなければ恨み言か。

 どちらにせよ、気づいてほしかったのだろう。


 ただ、確かに受け取った。


 僕はようやく自覚することができた。

 そして、同時にあらゆる謎がゆっくりとほどけていく。


 淡路が殺された理由も、この間の夜を僕が生き延びられた理由も、そして、恐らくは他の被害者たちが狙われた理由も。


 彼女が、何を求めているのかも。


 なら。

 ならば、だ。


 これがきっと、答えなのだろう。


「すべての、犯人は――」


 僕は、かつて彼女がそうしたように天を仰いだ。

 両腕をだらりと垂らし、焦点も合わせないままで。脳味噌と口だけが、自分の一部であるような錯覚すらした。


 そして、それを口にする。喉を通過した言葉は、それだけで胸を裂いた。


 咽頭(いんとう)に、気道に、それか食道や肺や、もしかすると腹の奥の奥にまで傷を作った。血が滲んだ。


 血が滲むということは、僕はまだ人間であるようだった。


 なら、僕は自分が人間であることを悔やむ。


 だって、そうだろう。こんなことを、こんな残酷なことを無自覚にやっていた僕が人で、あいつが鬼になるなんて。


 それを僕は許せるのか。

 それを信濃一樹は許せるのか。


 許せない、のであれば。ああ、もう、はっきりしているじゃないか――。



 ――僕は、僕らの青春の責任をとらなければならないのだ。



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