三章 その6
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進路希望調査表に、大学進学と書いたのは何故だっただろうか。
なんとなく高校生の時分に将来の事を考えるのが嫌だった――あまりにも不透明な未来の岐路の一つを選びとるのが不可能に思えた、というのが、主な理由だったと思う。
言わば、モラトリアム。卒業してすぐに働き始める者もいるだろうが、僕には恐らく、その選択肢はあまりにも向いていなかったのだと思う。
僕にとって選択とは、ギリギリまで遠ざけて、先伸ばしにして、後回しにするものだ。だから今回はそうしたし、今後もそうしていくつもりだ。
けれど、ひとつだけ――僕にはなりたくない職業がある。
「あっちぃ…………」
冷房の効いた職員室を出た僕は、熱気の満ちた廊下に思わずそう呟いた。
先程まで引いていた汗は、思い出したように首筋を流れ始め、不快な湿気は呼吸すらも重くする。
先輩からの電話を受けて、ほんの数分後の話だ。
とりあえず学校を抜け出すことにした僕は、それでも流石に無言で帰るのはまずいだろうと思い、早退する旨を伝えに来たのだ。
そんな僕に対して、担任教師はさしたる興味もないようだった。
形だけの気遣いを口にして、すぐに課題の確認作業に戻ってしまった。
それもそうか、と思う。一クラス四十人。それも、毎年毎年変わる顔触れの全てに愛着を持てというのは酷な話だ。
その中から切り捨てるとするならば、僕のように愛想の悪い、目立たない生徒になるだろうというのも道理である。
胸糞の悪い、一方的な取捨選択だ。する方もされる方も、何一つ納得なんてできやしない。
だから僕は――教師にだけは、なりたくない。
「……なりたくないじゃなくて、なれないんだろうけどな」
閑話休題。僕は階段を下りて、そのまま玄関へ。
下駄箱から靴を引きずり出すと、代わりに上履きを突っ込んだ。
そのまま正面玄関から出ようとしたが、この時間、こっちからは出られないはずだということを思い出す。
遅刻してきた生徒を閉め出すためという不毛で前時代的な理由から、正面玄関は下校時刻まで施錠されているのだ。
田舎の、それも公立高校。
こういう何の利もない古臭い慣習ばかりが残っているのは煩わしいものだが、ここでそれを言っても仕方がない。僕は渋々と裏庭の方に回ることにした。
靴下越しに感じる床の感触は、いくぶん冷たくはあったが、微かに人肌染みた生暖かさのようなものを帯びていた。
それがいつ脈打つかわからなかったから、僕も思わず早足になる。
そして、裏庭へと続く扉にたどり着いて、右手に提げた靴を地面に投げ捨てた辺りで、前方に見覚えのある背中を見つけた。
当然、校舎の外だ。気だるげな様子でぽつぽつと歩いていく、細い背中。肩口くらいまでの、ほんのりと茶色みがかった滑らかなショートヘアー。
何より、大股でどこか急くような歩調が決め手になった。
「佑香、か?」
或いは、妹の有佐か。対馬姉妹のどちらかであることは間違いないのだが、正面から見ないことには判然としない。
と、僕の声が聞こえたのか、それとも視線に気付いたのか。彼女はゆっくりとこちらに振り向いた。
「……ん? あれ、信濃じゃん。どうしたのさ、こんなとこで」
カラッとした口調。見れば、結ばれているのは右の髪だった。
「その様子だと、姉の方みたいだな。いや、ちょっと体調が悪いから帰ろうと思ってさ」
「サボりなんだ?」
「サボりじゃねぇっての。なんか頭痛が酷くってさ。そっちこそ、どうしたんだ?」
うん、ちょっとね。答えづらそうにモゴモゴとする彼女を見て、ああ、と僕にも閃くものがあった。
「……あ、すまん。デリカシーが足りなかったか」
「ううん、いいよ。そういうんじゃないし。あたしの方はちょっと家の用事が入っちゃってさ。信濃、バスだったよね?」
「ああ。一緒に行くか?」
静かに頷いた佑香と二人、バス停までのんびりと歩き出す。昼休みは終わり、三時間目の授業が始まっているようだった。
だからか、校内は恐ろしいくらいに静まり返っている。たまに窓の開いた教室の前を通ると、黒板にチョークを打ち付ける音が聞こえはしたが、それ以外には風と木のせせらぎしか僕の耳に届かなかった。
その静寂が、不思議と罪悪感を煽る。
なんとなく悪いことをしているような、そんな気がしてしまう。だとすれば、佑香とは共犯者になるのだろうか。
「……やっぱ、静かだね」
先に口を開いたのは彼女の方だった。視線は合わせないままで、噛み締めるように、ぽつり。
「……そりゃ、授業やってるしな」
「私、静かなの苦手なんだよね。なんか、色々考えちゃうっていうかさ」
その気持ちはよくわかる気がした。音の満ちていない大気には、思考の筆が運びやすい。しかし、それを彼女が言うのは、なんとなく意外な気がした。
「驚いた。佑香でもそういうこと、考えたりするんだな」
「でも、って何なのさ。私がまるで物事考えずに生きてるみたいじゃん」
「……結構、お前は脊髄反射で生きてる気もするけどな」
それでも、悩みはあるということなのだろう。
きっと、誰もがそうなのだ。平然としているように見える彼女だって、何かを抱えて生きている。
この青春を生きる者は皆。それが惨禍に結び付くか否か。考えてみれば、それだけのことなのかもしれない。
「で、そういう信濃は何を考えてたの?」
「友達と共犯者、どっちの方が恋人に近いのかなって考えてた」
「……それ、もし私のことなら、口に出した時点で脈無しだかんね」
「そうなのか? 共犯者とかむしろ脈アリじゃないとできないぞ」
「それであるとしたら狂った脈だよ。不整脈だよ」
不整脈とまで言うか。
けれど、それもそうだろう。
共犯者では永遠に最後の一歩は縮まらない。互いが互いを牽制し合うような間柄では、愛など生まれるべくもないのだろう。
「そうか。残念だけど、仕方ない」
「本当に残念だと思ってるなら、せめてそういう顔くらいしなよ……」
ていうかさ、と口を尖らせる。
「私、知ってるんだよ。信濃、山城先輩と仲いいじゃん。上手く行ってないの?」
「山城先輩? それ、どこで聞いたんだよ……、まあ、あの人とはいい主従関係が結べていると思うぞ」
「主従?」
佑香が怪訝そうに眉を寄せる。
「何でもない、気にするな。いい関係を保ててるってことだ」
未だに世間に認められていない"症候群"の話を聞かされ、その患者を見つけるために結んだそれを、いい関係だとするならば、だが。
「……なら、いいけどさ」
どこかスッキリとしない返事。やはり、主従はまずかったか。
「勘違いするなよ、佑香。主従とは言っても別に忠誠を誓った訳じゃなくて、ただパシリにされたりあちこち連れ回されたりと、そういう関係であるというだけだからな」
「……先輩って、意外とそういう趣味の人なの?」
「ああ、そういう趣味の人だ。今度会ったら聞いてみると良い。きっとゴミを見るような視線を向けて貰えるぞ」
「信濃って、何の話をしてるのか、たまにわからなくなるよね」
そんな話をしているうちに、やがて、目的地にたどり着いた。
登下校時間以外のバスの本数は少なく、次は二十分後だった。
二人で並んでベンチに腰を下ろし、そのままぼーっと道路を見つめる。
穏やかな時間。こうしていると、殺人事件なんて起こっていないんじゃないかと思ってしまう。
僕らは取り留めのない会話を続ける。それは来る期末テストのことであったり、嫌味な教師への愚痴であったり。
あるいは流行りのアーティストの新曲は聴いたかとか、人気の漫画の新刊は買ったかとか、普通の高校生がするような、ありきたりの会話。
しばらくした頃だろうか、会話の切れ目にさ迷わせた視線が、佑香の横顔に止まった。
こうして見ると、彼女ら姉妹は本当にそっくりだ。
意図的に見分けられるようにしてくれていなければ、間違いなくどちらがどちらなのかわからないだろう。
そういえばと、その疑問は実に唐突に生じた。
「……あれ? 家の用事ってことは、有佐を待たなきゃいけないんじゃないのか?」
まさか姉妹で佑香だけ呼び戻されるということはないだろう。急用であるならば二人とも帰るのが普通だろう。
「え……? あ、うん……」
僕の言葉に、佑香は何故か目を剥いた。
そして、何故か不自然に視線を泳がせる。別に言い淀むようなことでは無さそうだが。
「……やっぱり、サボりなんじゃないか?」
どう考えても、この場に有佐がいないのは不自然だ。
あれだけ仲の良い姉妹なのだから、帰らなければならないのなら片割れを待つはずだろう。
ただ――真面目な有佐がサボりを認めるとは思えない。
だから、もしこの場に有佐がいない筋が通った理由があるのなら、そういうことになるのだろう。
「……う、うん、まあ、バレちゃしょうがないか。サボり……っていうか、午後の授業、両方とも自習になっちゃったじゃん? 学校にいてもしょうがないから、帰ろうかなって」
そう言う彼女の表情は、まだどこかぎこちないような気はしたが、それはたぶんつまらない嘘を見破られたことによるものなのだろう。
ただ――学校にいてもしょうがない、というのはどういうことだろうか?
「これまた意外だ。佑香はもっと、学校が好きなものだと思ってたけど」
いつもからりと笑っていて、友人も多い彼女なら、授業がなくとも友人との会話や交流を楽しむこともできるだろうに。
高校に入学してからの付き合いになるが、佑香の口からそんな言葉を聞くとは、正直、思っていなかった。
「心から学校が好きな高校生なんていないでしょ。私だって、たまには早く帰りたいときもあるんだよ」
「だからって、早退しなくてもいいんじゃないのか? それこそ、自習なんてみんな真面目にやってないだろ?」
「それでも、だよ。私なりに午後の時間を自由に過ごすのと、友達と駄弁りながら自習の時間を潰すのとを、天秤にかけたってだけのことなの」
天秤。
以前にも聞いたような気がする――いや、あれは有佐の方だったか?
よく覚えていないが、確かに言っていた。双子というのは、感性も似ているのだろうか。
「……天秤、ね。それ、疲れないのか?」
「疲れないよ、別に。私は選ぶだけだもん。どっちの方が価値があるかなって、価値の大きい方を、重くて傾いている方を選ぶだけだもん」
「なんだかそれ、馬鹿らしいと思うぞ。僕はそんな理科の実験みたいな生き方したくないけどな。なんかこう、もっと情緒豊かに生きたいもんだ」
そこまで言ってから、しまった、と思った。佑香の目が、スッと細くなる。眉間に皺が寄る。明らかに言うべきではないことまで言ってしまった。
「……何、説教? 信濃だっておんなじサボり魔のくせに?」
「いや、別に僕は説教したつもりは」
「ふーん、サボり魔の方は否定しないんだ」
「サボったのは事実だしな。でも、まあ、すまん。言いすぎたよ」
頭を下げる。別に僕は佑香と喧嘩がしたいわけではないのだ。
ただ――何故か引っかかる。秤。その意味までは掴めないが、僕の頭のどこかに置いておかなければならない。そんな気がした。
だが、ここでこれ以上彼女に聞くのは無理だろう。取り分け意味のあることとも思えない。
単にそういう例え話をよくするというだけの話だろうし、話し方に突っ込むのは互いに気分もよくないだろう。
「あー、もう。顔上げなよ。別にわざわざ頭下げてもらうようなことじゃないって」
「いや、そういうわけにはいかない。放課後デートに行ってもらえるまで、僕は頭を下げ続けるぜ」
「放課後デートの話してなくない? 信濃って、どうしてそう……」
その続きは溜め息に変わった。呆れた様子で首を振った彼女は、どこか諦めているようにも見えた。続けて、小声で何事かをボソボソと呟いた。
「なんだ、罵倒なら聞こえるように言ってくれないか?」
「うるさいなあ、もう! 本当、何でこんなのが……」
「こんなのが?」僕はあえて、おどけたように聞き返した。
「こんなのがあんな美人の先輩と付き合えてるのかなってことだよ」
付き合ってねえよ、と否定するのも面倒だった。
ムキになるほどのことでもなかったので、適当に誤魔化すことにした。
「前世で積んだ徳が違うんだろ。カミサマは善行をしっかりと見ていてくれてるってこった」
「……っ! カミサマ……って……」
またしても、彼女は不自然に狼狽えた。なんだ。今日の佑香は、何かおかしい。
まさか熱心な宗教家だったのだろうか。
だとすれば、僕は異教徒か? なんて、そんな下らない思考ばかりが通りすぎていく。
「……ねぇ、信濃」見れば、佑香の唇は微かに震えていた。
「カミサマはさ、本当にちゃんと見てると思う?」
ただならぬ雰囲気に、思わず唾を飲む。
どうしたというのだ。明らかに彼女は異常であった。
何かに怯えているというか、何かを恐れているというか。
どうあれ、僕には気の効いた言葉は用意できない。
ただ、それでも適当な答え方をするのはよくない――そんな気がした。
「……見てる、とは思う」
脳裏に、伊予の言葉が去来した。『カミサマっていうのは良心なんだよ』。だとするならば。僕は丁寧に言葉を選んで続ける。
「ただ、それは天国とか、そういうところから見下ろしてるカミサマじゃない。僕らを見てるのは、僕らの中のカミサマだ。尊敬する人とか、道徳とか、常識とか、目標とか。そういう尊いと思えるものが、胸の中から僕らを常に見張ってるんだ」
当然、今日のサボりもな。最後にそう結んで茶化したのは、僕の弱さだったのだろう。
しかし、佑香の表情はほとんど緩まなかった。むしろ、一層に険しさを増し、切迫した様子で口を開く。
「じ、じゃあ。やっぱり悪いことは、裁かれる……のかな?」
「だろうな。もしそれを、お前のカミサマが許さないのなら、必ず」
必ず。
だって、自分だけは自分に嘘が吐けないのだから。
遠ざけても忘れようとしても、いずれは追い付かれる。
追い付かれれば――どうなる?
「……なんてな。まあ、冗談だよ。カミサマなんてクリスマスとテストのヤマ張る時にしか信じちゃいないさ」
今はその答えを出すときではない。
少なくとも僕はそう判断して、適当に誤魔化した。それと向き合うには、まだほんの少しだけ足りなかったのだ。
自分と向き合う覚悟が。
他人にそれを話す覚悟が。
世界に結論をつける覚悟が――足りなかった。
「……そっか」
佑香は僕の脆弱に対して、ただそれだけを返した。
優しさ、なのかもしれない。ただ、僕らの世界は致命的に違う色をしているだろうとはわかった。
彼女が僕に求めているものと、僕が彼女に求めているものは決定的に違って、もしかすると、それは今の関係には相応しくないものだったのかもしれない。
でも――僕にどうしろって言うんだ?
「……信濃、さ」
ゆっくりと、彼女は立ち上がる。その横顔は、なんだか、やけに彼女らしくないように見える。
それと同時に僕らの目の前に滑り込んできた大質量。
くすんだ色の路線バスは炭酸の抜けるような音と共に口を開けた。背を向けたままで、彼女はぽつりと言う。
「私、今から酷いこと言うよ。君が揺らいじゃうってわかってるけど、それでも、これだけは言わせてほしいんだ」
佑香が歩を進める。僕は動けないままで、それを眺めていた。
何故だかわからないが、今手を伸ばしても彼女には届かない。そんな気がしたのだ。
扉が閉まる一瞬。最後に振り返った彼女は、驚くくらいに悲しそうな、そうでなければ、哀れむような目をして、僕に。
「……先輩のことは、あんまり信用しない方がいいよ」
その言葉が最後だった。一枚を挟んで、僕らの時間は分かたれる。
双曲線の交点のようなほんの一時の重なりは、もう彼方に流れていってしまった。
彼女の最後の一言を何度も頭の中で反芻しながら、僕がバスを乗り過ごしたことに気付いたのは、ほんの三分ほど後になってからのことだった。




