一章 その1
人生の転機に、アナウンスは存在しない。
いつだってそれは唐突に訪れて、僕らはそれを、あまりに無防備なまま受け止めることになる。
僕の場合、それは六月の終わり、級友に押し付けられた掃除当番を終え、教室に戻った午後十七時のことだった。
いつものように、埃とカビの匂いが閉じ込められた掃除用具入れを乱暴に閉めた僕は、自分の帰り支度をするために、教室の扉に手をかけ、そして何の感慨もなしに開いた。
目に飛び込んできたのは、出来過ぎなくらいに美しい光景だった。
夕暮れの教室。梅雨時の湿っぽい地面の匂いと、グラウンドから響いてくる運動部たちの声だけが、どこか褪せた色をした室内に満ちていた。
七かける六に並べられた椅子と机の群れ。彼女が立っていたのは、その中心だった。
まず目に入ったのは、中空に引いた薄墨のように伸びる、長い黒髪。一本一本が陽光を反射し、キラキラと輝く様は、まるで黄金の糸が踊っているかのようだ。
すらりと細いシルエットは、あちこちにたおやかな柔らかさを残しつつ、どこか抜き身の刃物のような厳格さをもって、そこに突き立っている。
アンニュイに伏せられた目は、それでも確かな意思の光を感じさせ、半袖の制服から除く肌は、神経質な白磁のように澄んでいた。
きれいな人だった。
僕は思わず、手に持っていた学級日誌を取り落としそうになりながら、彼女に目を奪われていた。
網膜の裏にまで焼き付くのではないかというほどに鮮烈なその光景が、ただ、頭蓋骨の裏に殴られたかのような痺れを残していた。
彼女は制服を着ていた。ということはつまり、うちの生徒なのだろう。
首元に戦ぐリボンの色からして、おそらく三年生だろうか。どこか近い年回りとは思えない、色香を感じさせる人だった。
と、唐突にその女子生徒は、身を翻した。大きな切れ長の瞳が、僕の胡乱な両目を射抜くと、痛みが走ったかのような錯覚すらしてしまう。
「――あなたは、このクラスの子?」
薄い唇が艶やかに開いて、漏れ出した穏やかなアルトが、言葉をそう形作った。
声をかけられたのだ、と気づくまでに数瞬。この場に僕以外の誰かがいれば、きっとその人物に向けての言葉だと思ったことだろう。
けれど、この舞台の上には僕と彼女しかいない。
今まで傍観者としてそこにおり、思考のための脳みそと両目以外は、それこそ呼吸すら忘れていた僕は、心臓が跳ねるのを抑えながら、どうにか返答を絞り出した。
「……ああ、そうっすよ。あんたは三年生っすよね。何か――」
「探しているの」彼女は遮るように言った。
どこか蠱惑的なその眼には、探るような気配すらあった。
それはどこか、浅薄な自分を覗き見られているようで不快ですらあったが、それを口にすることも許さないような、有無を言わさぬ雰囲気があった。
眉を寄せる僕を意にも介さぬ様子で、彼女は続ける。
「……このあたりに、いると思ったのだけど。アテが外れたわ」
そう言って肩をすくめたが、言葉ほどに落胆している様子はなかった。
どちらかというと、諦念が透けて見えていたのだと思う。タイムマシンがないとわかっているのに、机の引き出しを開けてみる感覚に近い。
そんな、空虚さの漂うセリフだった。
「探してるって、このクラスのやつっすか? 悪いけど、もうみんな帰っちゃいましたよ」
「ええ、そうでしょうね。だからこそ、いい頃合いだと思ったのだけれど」
「……どういう意味ですか?」僕は思わず眉をひそめた。
「言葉のままよ。早すぎたのかも知れないわね。あるいは、まだそこまで状況が進行していないのかも」
だとすれば、喜ばしいことだけれど。
彼女はどこか歌うように連ねた言葉を、そう結んだ。
変わった人だな、と思った。会話が通じるようで通じない。まるで、ネジの外れた機械翻訳でも相手にしているかのようだ。
会話の位相が、致命的にずれている気がする。
センチメートルとキログラムの話をしているかのようだ。あるいは彼女の方には、最初から言葉を交わすつもりなどないのかもしれないが。
「……話し過ぎたわ。私はもう、行かなきゃいけないの。そろそろ斜陽に追いつかれてしまうから」
「追いつかれるとどうなるんですか? まさか、飛んでもないのにイカロスってことはないでしょう」
「どうかしら」彼女は、怪しげな笑みを浮かべた。「案外、紙一重かもしれないわよ。焦げ臭さを感じる前に帰路につきなさい。焼けた肉を生肉に戻せるというというのなら、話は別だけど」
そう言って、彼女は僕の脇を通り抜けていった。
本来ならば交わらないはずの双曲線。それが計算式の歪みによって交わってしまったかのような、虚数軸上の交点。
すれ違い様、首筋からふわりと漂ってきた柑橘系の香りが、やけに鼻先に残っていた。