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青春惨禍症候群―壊れた日々と、天秤の君―  作者: 文海マヤ
三章 「惨」
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三章 その5

 ***



「お、今日はサボらなかったんだな、親友」


 自分の席に鞄を投げるなり、因幡はどこか楽しそうに口にした。


 今日の彼は普段逆立てている髪を、どこか緩やかに遊ばせている。

 いつもとは整髪剤が違うのだろうか、僕はそういったファッション系の話には、致命的に疎い。


 七月四日。淡路の訃報を受けてから、一晩が明けた。


 寝て起きてみれば「全てが夢だった!」なんて都合のいいことはなかった。

 淡路は間違いなく死んでおり、殺人事件は続いている。


 ふと、登校前に覗いてきた、書類上、淡路が所属していることになっている教室には、ひとつだけ花瓶の置かれた机があった。


 おそらく、入学からロクに使われることはなかったであろうそこが、彼女の本来の居場所だったのだろうか。

 それを聞く勇気はなかったし、今さら聞く意味もないように思えた


「ああ、昨日はちょっとな。悪かったよ、僕も結構まいっちまっててさ」


 口にしながら、ほんの少しだけバツの悪さも感じていた。

 佑香には昨晩の電話で謝ったものの、まだ因幡にはなんの謝罪もしていない。


 しかし、彼はそんな僕の憂鬱を吹き飛ばすように、歯を見せて笑った。


「はっ、気にすんなよ親友。事情はわかってるつもりだ。お前が立ち直ったんなら、それで構わねえよ」


 格好つけるようなその言葉は、拍子抜けするくらいいつもの彼のものだ。


 どこか軽薄な調子も、意識してみればずいぶんと心地よい。

 自分がいるべき場所はここなのだと、そして、まだ壊れていないのだと、そう錯覚しそうになってしまう。


「まあ、なんだ。近いうちに落ち着いたら、また遊びに行こうや。なんでも、夏休みが前倒しになるらしいからよ」


「夏休みが前倒しに……?」


 僕は思わず復唱する。


 確か、来週の頭から期末試験が始まり、それが終わってテスト返却まで終わった再来週辺りが終業式だったように、僕は記憶していた。


「おう」因幡は汗を手の甲で拭いながら答える。「昨日の朝、お前いなかったもんな。なんでも、例の事件があるから、混乱とこれ以上の被害を避けるために、今週末から夏休みに入るんだとよ。期末は夏休み明けの八月末まで先延ばしだ」


「……そう、か」


 僕は呆然としたまま、そう口にすることしかできなかった。


 テストの日程が延びたことも、少し早く夏休みが来ることも、普段の僕なら喜べるだろう。


 しかし、今はそんなことができるはずもない。

 他人事だと、切り捨てることもできない。


 ただ、夏の気配が彼女の記憶を希釈し、薄め、皆の記憶から消え去ってしまうのではないかと。


 それが、ただひたすらに恐ろしいばかりだ。


「……ん?」不意に、因幡が眉を上げた。「おい、信濃、あれってさ……」


 彼の視線を辿ると、それは教室の入り口に向けられていた。


 そこには、半分ほど開けられた扉から首だけを覗かせ、キョロキョロと辺りを探るようにして視線を動かしている者がいた。


「……佑香? なにやってるんだ、あいつ?」


 口にして、気がつく。あれは佑香ではない。結ばれた左の前髪、そして、どこか気弱そうな目元。


 僕は席を立ち、彼女との間をゆっくりと詰めた。

 そして、扉まであと数メートルというところでこちらに気がついたのか、その大きな目を驚いたように見開いた。


「よう、有佐。 うちの教室に何か用か?」


 対馬有佐。


 佑香の、双子の妹。二人の顔つきはほとんど瓜二つであり、髪型を見なければ、見分けなどほぼつかないほどだ。


 そんな彼女は、どこかおずおずとした様子で、伏し目がちに口を開いた。


「あ、信濃さん……。この間はどうも」


「あ、ああ。まだあの本、読み終わってなくてさ……それより、今日はどうしたんだ?」


 有佐が教室まで来たのは初めてだ。

 友人である僕らもつい最近まで彼女のことを知らなかったのだから、わざわざ教室まで足を運んだのには、何か意味があるのではないかと勘ぐってしまう。


「あ、いや、大したことじゃないんです。お姉ちゃん、まだ来てないですか?」


「お姉ちゃん? って、佑香のことだよな……」


 僕も先ほどまでの有佐と同じように、辺りに視線を這わせる。


 当然だが、彼女の姿はどこにもない。ホームルーム前の朝の喧騒は、狭い教室の中をまだらに染めてはいるものの、そこに見慣れた佇まいを見つけることはできなかった。


「今日は、まだみたいだな。一緒に登校してきてないのか?」


「はい……とはいえ、いつもは一緒なんですけど、今日はお姉ちゃん、なんだか夜更かししてたみたいで……」


 夜更かし。


 不意に、昨晩の電話が頭を過った。けれど、そんなに遅い時間ではなかったようにも思える。


 まあ、佑香も別に話のわからない子供ではない。分別を弁えられるくらいの年齢ではあるだろうから、寝坊するまで起きていたりはしないだろうが……。


「……最近、お姉ちゃん、何か悩んでるみたいなんです。物騒な事件も起きてるし、心配で……」


「……そうだな」言いながら、僕は思案する。


 思えば、昨日の電話もそうだ。もしかすると、僕も余計な心労をかけてしまっていたのかもしれない。


 第一、第二の事件の被害者も、誰かの友人だったのだ。

 もしかすると、その二人と佑香には交流があったかもしれない。仮になかったとしても、忍び寄る死の気配は大きなストレスになるだろう。


「うーん、でもまだ来てないってことは、寝てるのかな……もしお姉ちゃんが来たら、お弁当は私が持ってきてるって伝えておいてもらえますか?」


「ああ、そのくらいなら構わないよ。もう、教室に戻るのか?」


「はい、ホームルーム始まっちゃいますし。また、昼休みにでも様子を見に来ます」


 そうとだけ残して、彼女は廊下を駆けていった。

 華奢な背中が小さくなってゆき、曲がり角を折れて見えなくなった。


 なんだか、不思議な感覚だ。

 見た目はほとんど、慣れ親しんだ友人と変わらないのに、中身はまるっきり違う。


 あれは、まるで――。


「――鏡に映したみてぇだよな、マジでさ」


 不意に、背後から聞こえてきた声に、僕は思わず身を跳ねさせた。


 見れば、僕のすぐ真後ろに因幡が立っていた。彼は訳知り顔で納得したように頷きながら、続ける。


「今の、佑香の妹さんだよな。数えるくらいしか会ったことねぇけど、やっぱなんか、違和感あるよな」


「……まあ、な」僕は僅かに声量を落とす。


「親友も思うよな。活動的で運動が得意な姉と、内向的で読書が好きな妹。まるで絵に描いたような真反対だ、ステレオタイプ過ぎて笑けてくるぜ」


「そういうもんじゃないだろ。性格とか嗜好とか、示し合わせたように真逆にできるもんかよ」


「そうか?」因幡は皮肉げに笑う。

「俺にゃそうは思えねぇな。不足を補うためか、それとも、それが一番楽だからなのかは知らねぇけど、な」


 僕は思わず首を傾げた。彼が何を言おうとしているのか、全く僕にはわからない。


 佑香と有佐。

 右と左。


 左右が非対称なのは、別におかしなことでもなんでもないだろうに。


 そんな僕の様子を見かねたのか、因幡は歯を見せて笑う。一目で、誤魔化そうとしているとわかるような笑みだった。


「気にすんなよ、親友。深い意味はねぇさ。ただ、あのおしとやかさがあともうちっとばっか、佑香のやつにもあってくれたらなと思っただけでよ。なにせ、あいつのガサツさときたら――」


「――ねえ、何の話?」遮るようにして、背後から冷ややかな声が飛んできた。


 見れば、そこに立っていたのは先ほど見送った有佐――ではなく、今度こそ本当に佑香だった。


「え、いや、あの……だな。ほら、さっきまで有佐が遊びにきててよ」


 普段の調子のよさはどこへやら。明らかに、因幡の声は震えていた。


 それもそうだろう。目の前の佑香は口元こそ笑っていたものの、目は笑っていなかった。


「へえ、そう。それで? 誰があの子と比べて、ガサツだって?」


「ご、誤解だっての……なあ、信濃! そうだよな!?」


 じりじりと教室の端に追い詰められていく友人に背を向け、僕は静かに十字を切った。


 ああ、因幡。

 お前はいいやつだったよ。


 始業の鐘と同時に、鋭い打撃音と、くぐもった響きが校舎に響き渡った。


 デリカシーの無さは、身を滅ぼすのだとその身をもって知らせてくれた親友にはとりあえず敬礼。


 そこからは、拍子抜けするほどに普段通りの日常がやってくる。


 無愛想な担任による、ユーモアの欠片もないホームルーム。

 退屈な授業は午前中にも関わらず生徒たちに船を漕がせ、年配の教師の聞いてもいない自慢話を聞きながら、時間は過ぎていく。


 僕の胸の内の焦燥も、"症候群"も関係なく。


 そんな時間が終わりを告げたのは、昼休みに入るほんの少し前。

 ポケットで僅かに、スマートフォンが振動した直後のことだった。


 僕は教科書の陰に隠しながら、通知を覗き見る。

 それは昨日連絡先を交換した、山城先輩からのメッセージだった。


『犯人の手がかりが見つかったわ。今から指定する場所まで、すぐに来て頂戴』


 短い文だったが、それは、僕をぬるま湯から引き揚げるのには、十分すぎるほどであった。


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