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青春惨禍症候群―壊れた日々と、天秤の君―  作者: 文海マヤ
三章 「惨」
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三章 その4

 ***



 曰く、世界は一つであるらしい。


 すべての空は繋がっていて、芸能人もF1レーサーも総理大臣も同じ時間を生きていて、僕が漫然(まんぜん)と消費したこの一時間の間に、(なにがし)とかいう国では幾人の命が失われている。


 僕が居眠りをしていた午前中に、有名な作家が急逝(きゅうせい)しただとか。


 僕が事件のことを嗅ぎ回っていた放課後に、どこかの会社の株価が暴落しただとか。


 何気ないひとときの間に世界は回っていて、たくさんの物語が始まり、あるいは終わっている。


 しかし、それらのどれもこれもがなべて――僕には他人事である。


 同じ世界に生きていても、同じ視界を共有しているとは限らない。


 画面の向こうに追いやってしまえば、どれもこれもが途端に色彩を失ってしまう。

 リアルではなくなる。


 けれどこればかりは――流石に対岸に追いやることはできなかった。


「……ひどいもんだよな」


 僕は箸を置くのも忘れて、そう呟いた。


 夕食の時間。テレビに映し出されていた景色はどれも見慣れたものばかりで、目を背けることすらできそうにない。


 ――淡路の死は、その日の昼にはもうニュースになっていた。


 どのメディアも彼女のことを"三人目"と呼び、連続殺人事件の被害者であると、悲劇的に報道した。


 虚実織り混ぜ、終わらぬ連続殺人の哀れな被害者。

 けれどどこか、彼女そのものというよりも、"三人目"というところばかりが強調され、彼女自信のことは軽視するような、そんな雰囲気すら見て取れた。


 きっと僕が死んだとて。


 この番組の構成は、何も変わらなかっただろう。それがひどく腹立たしい。


 それに、切り離されていると思っていた世界が繋がる感覚は、こうして味わうぶんにはひどく心地の悪いものだった。


 僕の頭には後輩の笑顔が、こびりつくようにして残っている。消えてくれない。


 彼女との記憶がちらつく度に、腹の中に怒りが満ちる。

 沸騰するような熱さ。意識して抑えなければ、叫んでしまいそうなくらいの焼けた怒りの塊が、喉のすぐそこまでせり上がってきている。


 伊予は『そうだね』と書かれた端末を僕の目の前に立てたまま、今日もまた、ドレッシングすらかけずに生野菜を頬張っている。

 油がダメだというのは知っている。だったらノンオイルのものを買ってこようかというと、それも良しとしない。頭のいい人間とは、どうしてこうもどこか融通(ゆうづう)が効かないのだろうか。


 僕が話して、伊予は黙る。

 無声と有声。ゼロとイチのやり取りが、僕らの会話の常だ。


 言葉を持たない伊予に、僕が好き勝手に話しかける。そして、彼女がその中から取捨選択して、興味を持った話題にだけ返答を寄越す。


 だから僕の言葉はその大半が独り言になってしまう。だが、それを煩わしく思ったことはない。

 伊予は返事をしなくてもしっかりと聞いていてくれるし、何より、僕のこんがらがった思考をスッキリとまとめてくれることもある。


 ……まあ、その逆もあるのだが。


 ともかく、僕はその時も、報道番組を眺めながら何気なく呟いたのだ。


「なんというか、こう、殺人事件ってのは身近で起こってみると、色々考えちゃうよな。被害者がどんな気持ちだったのかとか、どうしてこんなことになったのかとか」


『そうだね』


「だってさ、災害とか病気とか老衰とか、そういうどうしようもないもんじゃないんだぜ。ある日突然、他人に殺されるんだ」


『そうだね』


「それって、どういう気持ちなんだろうな。僕には想像もつかねぇよ」


『そうだね』


「ああ、本当に胸くそ悪いな。世の中には、カミサマってのはいないのかね――」


 ――と。

 そこで初めて、伊予は『そうだね』の画面に手をかけた。


 キュウリとレタスをフォークに刺したまま、器用に片手だけで文字を打ち込んでいく。


『カミサマなんていないよ。私たちの生きている世界には、私たちしかいないんだ』


 伊予はそう綴る。どこか断定的な文体はいつものことだったが、ハナからこんな風に否定的な彼女は、初めて見たかもしれない。


 無神論者、ということだろうか。


 信仰が自由なら、無信仰も自由。

 考えてみれば、僕らなんかより何倍も聡い彼女が神の存在を否定するのは当然なのかもしれない。


 非科学的だとか。

 あまりに精神的だとか。


 あるいはそれに準ずる理由で否定しても、何ら不思議ではない。


 しかし、彼女は首を振る。蜘蛛の糸のような繊細な髪が揺れて、刹那、ふわりと宙に舞った。


『ごめんね、語弊(ごへい)があるかも。正確には、いるかどうかわからない、だからとりあえず今はいないってことになる。だよ』


「……ずいぶんと曖昧な言い方だな」


『だって、誰も見たことがないからね。君も初詣に行ってカミサマに会えた試しはないでしょ?』


 道理だった。確かに、誰もカミサマを見たことなどない。

 皆が何となく"いる"のだろうと思って、そう信じて、祈るだけだ。


 もちろん、突き詰めれば実在の証拠だったり、目撃の証言もあるのかもしれない。

 でも、少なくとも僕は知らない。僕が見える範囲の世界に、それは存在していない。


「……つまり、僕や伊予が認識してる世界において、神の実在が証明されてない。もっと言えば、見たこともないんだから、いるはずもない……ってことか?」


『だいたいそうだよ。いるかどうかわからないものを、いるって決めつけるのは愚かだからね』


「でも、それってなんだか虚しくないか? 宗教やってる人たちはみんな信じてる……というか、疑ってすらいないんだろ? なのにそれが実在してないなんて、そんなの」


 あまりに、空虚だ。


 僕も都合のいいときくらいしか神には祈らないが、それでも、いるかいないかで言えばいると信じたい方だ。


 そうでなければ、あまりに救われない人間が多すぎる。

 神に縋らなければ生きていけない者も、世の中にはたくさんいるはずだ。


『いいんだよ、そういう人からすれば、縋る対象があればいいのであって、それは必ずしも、神である必要はないんだ』


「……どういうことだ?」


『つまりね、例え頭の上にカミサマがいなくったって、彼らは自分たちの中に自分だけのカミサマを持っているんだよ』


 伊予はそこでフォークを置いた。見れば、ボウルは空になっていた。

 そのまま小さな手を傍らのマグカップに伸ばしながら、彼女は続ける。


『それは神という名前の偶像かもしれないし、尊敬する人であるかもしれない。誇りや信念かもしれないし、もしかすると、お金みたいな即物的な物かも』


「お金がカミサマってのは、何かやだな」


『そういう人もいるって話だよ。そして、それらのすべてにはある共通項がある』


「…………共通項?」


『どれもこれもが、その人にとっての良心だってことだよ』


 良心。

 正直、意味がわからなかった。伊予はよく難解なことを言う。

 僕に何かを伝えたいならもっと簡単に言ってくれればいいのに。


 僕は劣等なのだから。

 僕は愚鈍なのだから。


 あるいは最初から伝えるつもりなんてなかったのか。


 ともあれ、彼女は口元を歪めた。楽しそうに。そうでなくとも、愉しくはあったのだろう。


 伊予との同居は、まだ二年目だが――彼女は本当に悪趣味だ。


『咎めるんだよ。偽物であれ、虚構であれ、それを神だと思うのならば、不信心には天罰が下るさ』


「天罰、ってのはまた、なんとも宗教的だ」


『宗教みたいなものだからね。ある意味では、倫理観も常識も何もかも違う私たちは、それぞれがそれぞれ、違う教義の下で生きているのさ』


「…………僕らはみんな、宗教家だって?」


『宗教、って言葉の範囲の問題だね。神を信仰するのが宗教なら、私たちはみんなそうなるよ』


 みんな宗教家、か。


 なんとも突飛な話だが、否定することはできなかった。

 神は信じない。創造者などいるはずもない。


 なのに最後は神頼み。


 助けてください、叶えてください。それを一方的に注いで、ひとときの感謝。


 そうある者はきっと、少なくないだろう。

 僕らの回りに普段は見えないカミサマは、困ったときにだけやけにハッキリした輪郭をもって頭に浮かぶものだ。


 伊予は、僕が言葉の意味を咀嚼(そしゃく)する表情をしばらく満足そうに眺めていたが、やがて、自分のぶんの食器を重ね始めた。飽きたのかもしれないし、眠くなったのかもしれない。


「……なあ」僕は思わず、食器を手に席を立った伊予の背中を引き止める。


 気分屋な彼女が同じ話をすることは滅多にない。

 だからその前に、聞いておかなければならないことがあるような気がしたのだ。


 それがなんなのか、明確な答えが見つからないまま、しばらく意識の暗中をまさぐった僕は――ほとんど手当たり次第といった調子で、最初に指に触れた疑問を投げ掛けていた。


「……さっき、言ってたろ。カミサマは良心だって。じゃあさ、伊予にとってのカミサマって、なんなんだよ」


 もしかするとその問いは、今後の僕らの関係を、とんでもなく危うくしかねないものだったのかもしれないし、一方で『好きな映画は?』と尋ねるくらい、普通のことだったのかもしれない。


 知れない。


 共に暮らしながら、結局はそんなことも知らないのだ。


 僕らは互いに不干渉で、

 僕らは互いに不感症だった。


 だからこの時もきっと、僕に何かを言うつもりなど無かったのだろう。水が上から下に流れるように、あるがままに彼女は微笑む。

 テーブルの上に置かれた皿が、苛立つようにカチャリと鳴った。いつもよりいくぶんゆっくりとした手つきで端末を手に取り、打ち込んでいく。


 たっぷり数秒。勿体つけるように間を置いて、彼女は不毛な問答をこう結んだのだった。


『私が信じるのは私だけだ。そして、君もきっと、そうあるべきなんだと思うよ』


 それが本音だったのかは、ついに聞けないままだった。


 キッチンの方に歩いていく小さな背中を、僕は見送る。

 これ以上かける言葉が見つはなかったし、たぶんこれ以上、踏み込むべきではないのだろう。


 そして、ほんの少しの間が空いた。何をするでもなく呆けた僕の手の中には、まだ半分ほど米が残った椀があった。


 気付けばニュースも終わり、なんだかよくわからないサスペンスもののドラマが始まっていた。

 合間合間に挟まるコマーシャルでは流行りの炭酸飲料を、色彩過多な背景とともに紹介している。


 いつもの夜だ。

 静かな夜だ。


 彼女と話すと、不思議と心が落ち着く。

 先程まで煮立っていた胸中は嘘のように凪いでいて、怒りの残滓としての悲しみが、僅かに漂うばかりだ。


 伊予は片付けを済ますと、そのまま自室に消えていった。

 明日も学校なのだから、僕もさっさと食事を済ませて、今日は寝てしまおうか。


 そんな風に考えて、茶碗を持ち上げようとした。


「…………なんだ?」


 ポケットが微かに震動する。


 こんな時間に、誰かから電話だろうか。スマートフォンを引っ張り出す。


 表示されている番号には、心当たりがあった。

 食事中に行儀が悪いとは思ったが、画面に指を這わせて、そのまま耳の高さまで持ち上げる。


「……もしもし」


『もしもし、私だけど』


 聞こえてきたのは、僕にもよく馴染みのある声。

 けれど、いつもの快活さが削ぎ落とされたような響きに、ほんの少しだけ罪悪感が胸を刺した。


「……佑香」僕は彼女の名を口にする。「どうしたんだ、こんな時間に」


 時計に目をやる。デジタル式の文字盤に表示された時間は、そろそろ二十二時に差し掛かろうとしていた。


『いや、別に大した用事じゃないんだけど……なんか、心配でさ』


 それもそう、か。


 あんな別れ方をしてしまったのだ、心配をかけてしまっても無理はない。


 あの時は僕も感情的になっていた。

 冷静になってみれば、彼女らの気遣いだって身に染みてわかるはずだというのに。


「……いや、こっちも悪かったよ。せっかく誘ってもらったのに、断っちゃってさ」


『ううん、私たちも無遠慮だった。後輩の……淡路ちゃん、だったよね。大切な人だったんでしょ?』


 ああ、と返しながら、僕の脳裏には淡路の姿が甦ってきていた。


 笑う顔。

 呆れる顔。

 怒る顔。


 間延びした語尾や、穏やかな声。

 目を閉じれば思い出せるのに、もう二度と僕の目の前に現れることはないのだ。


『……怒らないでね。私、正直他人事だと思ってたんだ。今回の事件で、最初に殺された女の子ね、有佐に意地悪をしてた子だったの。だから、むしろ胸がスカッとさえしてた』


 彼女は僕が憤ると思ったのだろうか、おずおずといった調子で言っていたが、僕には彼女に何かを言う資格などない。


 僕だって、他人事だと思ってた。


 他人事だと思って、軽率に行動して――その結果、淡路は巻き込まれたかもしれないのだ。


『でも、今日の信濃を見て思ったんだ、どんな人も、必ず誰かの大切な人なんだって。私は後輩ちゃんとはあんまりか関わりがなかったけど、それでも、悲しむ人は必ずいるんだって、そう、思ったの』


 死とは、永遠の離別とは、そういうものだ。


 誰かの心を閉ざし、誰かの頬を濡らし、もしかするとその生き方さえ、変えてしまうかもしれない。


 だから、僕らは悲しむようにできている。

 壊れてしまわぬように、泣きわめけるようにできている。


『……それで、さ。信濃、上手くいえないけど……まだ、あんたには私たちがいるんだから……』


 煮えきらぬ様子で、佑香は文末を濁した。

 その不器用さに、僕は思わず笑みが堪えられなくなってしまう。


「いいよ、わかった。ありがとな……佑香」


 言われなくとも、わかっている。


 失ったものを数えている暇はない。

 僕らの短い青春は、わずかに立ち止まってしまっただけで、まるで吹き過ぎる風のように去っていってしまうだろう。


 だから、凹んでいる場合ではないのだ。


 僕は見つけるしかない。あの連続殺人事件の、真相を。


『ううん、お礼なんていいよ。それよりも、明日は普通に学校、来られそう?』


「ああ、勿論。流石にサボりまくってて、進級できなかったらマズいしな」


 ほんとだよ、と茶化すような声。続いて、鈴を転がすような笑い声が響いてきた。


 僕らは、互いに「また明日」を交換して、そのまま通話を切った。

 不思議と、靄が立ち込めていた心中が軽くなったのを感じる。


 誰かと話すこと。それはきっと、何よりも大切なことなのだ。

 抱え込んだって、どうにもならないのだろうから。


 手に持った椀の中で、白米はすっかりと冷えきっていた。

 それを同じく、熱を失った汁でかきこむと、僕はそのまま勢いよく席を立った。


 台所に歩いていく僕の背後。

 テレビからは未だ、事件に関する偉そうなコメンテーターの、どこに向けられているとも知れぬ言葉が響き続けていた。


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