三章 その3
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淡路蜜柑。
僕の後輩。
彼女と初めて出会ったのは、三年前。当時僕らが通っていた中学校の、校舎裏だった。
「消えちゃえばいいんですよぅ、私なんか」
そう呟く唇が、ひどくひび割れていた。そう、確か季節は冬で、外気温はそろそろ氷点を下回りそうだというのに、学校指定のブラウスだけを纏ったまま、震えていたのを覚えている。
「いらない人間なんです、私。だから皆に嫌われるし、皆に疎まれる。だから、早くここから消えちゃって、皆からも忘れられたいんですよぅ」
真っ赤になった指先は、何かを探るように忙しなく動いていた。
枯れた草木を倒し、いつから置かれているのかもわからないドラム缶や、もう動いていない焼却炉の裏を覗き込みながら、彼女はずっと、目に涙を溜めていた。
服はあちこちが泥だらけで、むき出しの足は冷え切り、膝からは血が滲んでいた。
まるで、傷みかけの果物のように。
酷い有様だった。きっと、あの場で僕が見て見ぬふりをすれば、本当に消えてなくなってしまっただろう。
そんな彼女に、僕はなんと言葉をかけたのだったか。二人で凍えた、あの冬の日に。僕らは確かに、同じ時間を過ごしていたはずなのだ――。
「――ん」僕の意識を微睡みから引き揚げたのは、聞き飽きた終業の鐘の音だった。
先輩と話した後、僕が学校に着いたのは、もう四時間目も終わりに近く、昼休みまであと十分ほどになった頃であった。
しんと静まり返った教室に踏み入ってゆき、自分の席に伏せるまで、誰にも話しかけられなかったのは、因幡あたりが話をつけておいてくれたからなのか。
なんにせよ、僕にとっては助かる話だった。
くだらない教師の説教や、心無い野次を相手にしている余裕はなかったからだ。
そうして瞼の重さに身を任せているうちに、眠りに落ちてしまったようだ。
懐かしいものを見た後の香ばしさと、今一番見たくないものを見せられた痛みが、鼻の奥をしきりに突っついており、僕は思わず顔をしかめた。
授業の緊張感から解放された教室が、俄かにざわめき始める。
このまま、もう一度微睡んでしまおうかと思った僕の肩を、優しい温度が包んだ。
「信濃、信濃。大丈夫? ニュース見たよ……」
見れば、僕の肩に手を添える佑香と、その背後に立つ因幡の姿があった。
二人とも、深刻そうな顔をして僕のことを覗き込んでいた。
「その、よう……まさか後輩ちゃんがあんなことになっちまうなんてな、いろいろあるだろうけど、あんまり考えすぎないようにしろよ、親友」
「……大丈夫だ」僕は二人に一瞥をくれて、再び突っ伏せた。「僕は大丈夫、心配しないでくれ」
先輩にはいつも通りの日々を送れと言われたが、とてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。
この教室に、犯人がいるかもしれない。
これまでに三人の命を奪った殺人鬼が、紛れているかもしれないのだ。
固まって談笑している女子グループ。騒がしくスマートフォンを構えている運動部。
弁当を突っつきあっている大人しい文化部グループに、誰とも話さず時間を潰している目立たない生徒。
誰もが怪しく見えるし、疑わしく見える。
もしかすると僕のこの疑念すらも、犯人には見抜かれているのではないかと、正直気が気ではないのだ。
「……心配すんなっつったって、そいつは無理だぜ、親友。だってお前、今にも死んじまいそうな顔してるからよ」
「僕は死なないさ。少なくとも、今はまだ死ねない」
生きなければいけない目標が、今はある。淡路を殺した犯人を見つけ出すまでは、僕は。
「信濃、目が怖いよ」佑香が、目を潤ませた。
「気持ちはわかるけどさ、変なこと考えないでよ。きっと警察が解決してくれるって。信濃が危ない橋を渡る必要、ないんだよ」
「…………」
佑香の言葉に、衒いのようなものは感じられなかった。
きっと。本心から心配してくれているのだろう。
けれど、僕はその背後に、かつての自分を重ねていた。先輩と出会った夜、まだ己が身に痛みを感じていない、どこか他人事な自分。
あの時とはもう、何もかもが変わってしまった。少なくとも、今の僕はこの事件の犯人を誰かに任せることなんてできない。
だってそうだろう、それで上手くいくのなら、警察様とやらはどうして、淡路が死ぬ前に事件を解決してくれなかったんだ?
「渡らないさ、危ない橋なんて。僕は渡って当然の橋を、当然のように渡るだけだ」
「……はあ」因幡が、大きく息を吐いた。「ホント、言いだしたら聞かねえよな、お前」
後頭を掻きながら、どこか彼は諦めたような口調だった。
「どうせ、俺らが何を言っても意志は変わんないだろ? 佑香、説教するだけ無駄だぜ」
「……でもさ、私は今の信濃を無視しとくことなんてできないよ」
彼女が、僕を気遣ってくれているのは痛いほどわかった。
わかってはいた――けれど、僕はそれを大人しく認められるほど、大人ではない。
「すまん、ちょっとだけ、ほっといてくれ」
僕は、教室を後にした。引き留める声を、無理やりに引きちぎる。
別に、耐える気になれば耐えることはできただろう。
けれど、僅かでも自分の癇癪をぶつけてしまう可能性があるというのがわかっていたから、僕はあの場を辞すことにしたのだ。
これ以上、自分を嫌いになってしまったのなら。
"症候群"などお構いなしに、僕は命を絶ってしまいかねない。
別に、二人が僕に意地悪をしようとしているわけではない、そんなことはわかっている。
だからこそ、それに甘えてはいけないとも思うのだ。
気持ちを落ち着けるために、どこに向かおうかと足を彷徨わせる。
逃げ場として使えるのは保健室くらいだったが、そこに立ち入ってしまえば、僕はまた大きな傷を負うだろう。
彼女のいない空間の虚しさに。
あるいは、在りし日の思い出に。
表皮は繰り返し線を引かれ、滲んだ血によって記憶は曇ってしまう。
それが、何よりも怖かったのだ。
どこか、静かな場所はないだろうか、そんな風に考えていた僕の足は、気がつけば図書室に向かっていた。
別段、考えがあったわけではないし、誰かに用があったわけでもない。
後付けで理由をつけるなら、本に音を吸われて静寂を保つあの空間と、壁一面の物語は僕の気持ちを紛らせてくれるのではないかと、そう淡く期待しただけである。
ガラガラと、横開きの扉を開ける。すると、特有の紙の匂いが鼻を突いた。
昨日は、本などゆっくりと見繕っている余裕はなかった。いや、なかったわけではないが、そんなことをしようとすら思わなかった。
どんな名作であろうとほとんど心に染み入ることはないだろうが、それでも、半ば自傷的に物語を受け入れてしまおうと思っていたのだ。
そうしなければ、傷口から漏れ出る細胞液が、僕をぐずぐずに溶かしてしまいそうだったから。
「……図書室、か」僕の記憶は、ほんの一日ばかり潜航する。
思えば、昨日ここで本を受け取った時点では、こんなことになるとは思っていなかったのだ。
シェイクスピア。
悲劇を手にした僕が、悲劇に見舞われるとはなんとも因果なものではあるが、それもまた偶然に過ぎないのだろう。
『あなたには、シェイクスピアがお似合いですよ』
昨日聞いた声が、フラッシュバックする。
今となってはその皮肉すらも、何か因果なものに思えてくるから不思議だ。
親友によく似た、瓜二つの彼女。片割れ。そう、その姿も今、目の前にありありと――。
「……あの、大丈夫、ですか?」
突然かけられた声に、僕は思わず身を跳ねさせた。
思考を巡らせるのに集中していて、目の前に人が立っているのにも気がつかなかったのだ。
そして、そこにいたのは、つい先ほどまで思い出の中にいたはずの少女――対馬有佐だった。
「その、入り口で立ち止まってぼーっとしてたから、心配になっちゃって。大丈夫ですか?」
「あ、ああ。何でもねえよ、ごめんな、ちょっと考え事してたんだ」
僕は慌てて取り繕う。確かに、こんな入り口で立ち止まるのは邪魔だろう。思索に耽るあまり、そんなことにすら気が回らなかった。
「そうですか、それならいいんですけど……信濃さん、今日はどうしたんですか?」
「どうした、というか、なんとなくかな……ああ、悪い。まだあの本、読みきれてないんだ」
「それは気にしなくて大丈夫ですけど……」彼女は僕の顔色を伺うように、ボソボソと呟いた。
有佐は何冊か本を抱えており、僕に声をかけてきたのは本当に偶然のようだった。
図書室の中に僕ら以外の生徒はほとんどいない。
それもそうか、皆まずは昼食を摂ってから動き始めるだろうし、逃げるように教室を出てきた僕の方が珍しいのだ。
となれば、不思議なこともある。
「……有佐、ここに来るの早いんだな。まだ昼休み始まって、五分も経ってないぞ」
そう、有佐はどうしてここにいるのかということだ。
淡路は保健室登校だった。だから、いつ訪ねてもいるのは当たり前だったものの、彼女はそうではないだろう。
僕の問いかけに、彼女はほんの少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
「私、いつも昼ごはんは図書準備室で食べさせてもらってるんです。教室には、ちょっといづらくて……」
「教室には、ってなんだよ、クラスメイトと折り合いが悪いのか?」
「そういうんじゃないですけど」彼女は困ったように目を泳がせた。
「私に、よく意地悪をしてくる人がいて、その人が、苦手だったもので……」
おずおずと、彼女がそう口にするのに、どこか違和感を覚える。
佑香と同じ見た目なのに、こうも違うものか。取り巻く環境や人間関係、双子とはいえ、別々の人間なのだと思い知らされる。
見た目が。
声が。
遠目に見れば判別が不可能な程に似通っていようとも、中身はまるきり違う。
それはなんだか、とても面白いことのようにも思えた。
個性という言葉が、のびのびと羽を伸ばしているかのようだ。
「あ、でも」有佐は何かに気がついたというように、視線を上げる。「最近は少し、変わってきたんです。状況が、好転してるっていうか……」
「そうなのか? まあ、過ごしやすくなってるならなによりだけどさ」
有佐と話すのは、これで二回目。知り合いと呼ぶにもおこがましいほどに、僕らの間の繋がりはか細いだろう。
しかし、それでも親友の妹が嫌な思いをしているというのは、決して愉快なことではないし、それが改善されつつあるというのなら、喜ばしいことだ。
「……もし、さ。あんまり飯食う友達いなかったり、教室に居づらかったりするって言うならさ、うちのクラスに遊びに来いよ。因幡はバカだし、お前の姉ちゃんはうるさいけどさ、少なくとも僕ら三人は、お前を邪険に扱ったりしないぜ」
そう口にしながら、僕はかつて、とある後輩にも同じような言葉をかけたことを思い出した。
校舎の裏、震える小さな体を見つけたとき、僕は黙っていられなかった。
彼女をあらゆる苦しみから救ってやりたいと思ってしまった。
僕の根っこは、あの頃から。そして、今に至るまで、何一つとして変わってはいないのだ。
変われない。
人はそう簡単に、変われないのだから。
「……ありがとう、ございます。でも、大丈夫ですよ。私なんかどうでもいいんです」
「どうでもいいってことはないだろ、お前だって――」
「私より」遮るようにして、有佐は語る。
「お姉ちゃんのことを、見てあげてください。佑香は何でも口に出すくせに、本当に大切なことだけは、いつまでも言えないから」
そう言い切る彼女の口調には、頑ななものがあった。
有無を言わせぬというか、口を挟むことが憚られるような。
足元に咲く花を踏みつけて行くことを戸惑うような、そんな儚さがあった。
「……わかったよ、でも、キツいときは言ってくれよ? 僕はもう、お前のことも友達だと思ってるんだからさ」
僕の言葉に、有佐は笑みを浮かべた。
何かおかしなことを言っただろうか?
確かに、クサい台詞であることは認めるが、笑うことはないだろう。
彼女が笑ってくれた喜びのようなものと、なんとなく釈然としない気持ちの狭間に落とされた僕に、彼女は笑みの理由を明かさなかった。
ただ、誤魔化すようにしてむせ返りながら、核心めいた口調で言うばかりだ。
「あはは……やっぱり、信濃さんにはシェイクスピアがお似合いです」
「なんだよ、それ。滑稽な悲劇がよく似合うってことか?」
違いますよ、と彼女は首を振った。どこか子供っぽいような、大袈裟な仕草だった。
「信濃さんはどんな悲しいことも皮肉って、笑い飛ばしながら歩いていける人だと思うんです。そうじゃなきゃ、彼の戯曲は悲しすぎますから」
それはきっと、彼女にとっては最大の賛辞だったのだろう。
後になって思い返せば、それは間違いのないように思える。
しかし、この時点での僕はそれを知る由もなかった。
だから、彼女が突然詩的なことを言い始めたのだと、そう解釈するしかなかった。
呆けた僕に、彼女は追い討ちのように言う。
「信濃さん、あなたは"一番重い分銅"なんです。どうか、お姉ちゃんの側にいてくださいね」
「……よくわからないな、分かりやすく言ってくれよ」
そんな僕の愚かさすら。
彼女は否定しなかった。
「……無茶はしないで、ってことですよ。姉から聞いてます。色々あったって、そして、これからのあなたが心配だって」
僕は目を丸くした。なんだ、最初から知っていたのか。
驚愕する僕を尻目に、クスクスと彼女は微笑む。
それを見ていたら、なんだか――力が抜けてしまった。
「……降参だ、お前にまで心配かけてるようじゃダメだよな。きっと淡路だって、そんなのは望んじゃない」
僕は頬を張った。こんなんじゃダメだ、全然ダメだ。
やらなきゃいけないことが、まだまだ山に残っている。残っている以上、僕には凹んでる余裕もないのだ。
「ありがとな、有佐。お陰で目が醒めたぜ。他の誰でもない、僕が折れちゃダメだよな」
一ミリ。
あともう少しで曲がってしまうところだった心の鉄板は、ギリギリで踏みとどまった。
僕は彼女に背を向け、教室に戻ることにした。彼女がそれを引き留めることは、しようとはしなかった。
僕も無言の感謝を伝えながら、図書室から遠ざかっていく。
次に会ったときには本の感想を伝えなければいけないなと、そう思ったのだった。