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青春惨禍症候群―壊れた日々と、天秤の君―  作者: 文海マヤ
三章 「惨」
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三章 その2

 ***



 蛇口をひねると同時、冷え切った頭頂を熱い湯が濡らした。

 凍えそうなほどに熱を失っていた表皮がじんわりと痺れるように震えて、感覚を取り戻していく。


 先輩が僕を招いたのは、淡路の家から歩いて十分もしないところにあるマンションの一室だった。

 この辺りでは珍しいオートロックの玄関と、どこか高級感のある佇まいが印象的な、十階建ての最上階。


 そこで僕は今、シャワーを借りていた。

 普段先輩が使っているであろう浴室はピカピカに磨き上げられており、あれだけ長い髪の毛をケアしているだろうに、抜け毛の一本すらも落ちていない。


 泥だらけの足で踏み入るのは正直気が引けたが、ずぶ濡れのまま話を聞くというわけにもいくまい。僕は申し出をありがたく頂戴し、今に至るというわけだ。


 僕は自分でも驚くほどに無感動に、温水が肌を伝うのに任せたまま、ただ目の前の鏡を見ていた。涙の跡も水は洗い流してくれたようで、先ほどまでの醜態(しゅうたい)を感じさせるのは、僅かに赤くなった目元のみとなっていた。


「ちょっと、いいかしら」不意に扉の向こうから聞こえてきた声に、思わず体が跳ねる。

「着替えの用意ができたから、ここに置いていくわよ」


「あ、はい……ありがとうございます」


 僕は返事をしながらも、心ここにあらずだった。


 なんだか、何もかもが遊離しているように思えた。たった一つですら現実感がない。


 淡路が死んだことも。

 先輩の家に、今、こうしていることも。


 何一つとして信じられなくはあるが、心は先ほどよりは随分と凪いだようだった。

 冷静になって、物事を考えられるくらいの分別は戻ってきていた。


「……伊予には、後で謝らないとな」


 あんな風に家を飛び出してきたとしても、きっと彼女は気にも留めないだろうが、そうだとしても、ひどい態度をとってしまったのは事実だ。


 それに、もうすでに学校は始業の時間を迎えているだろう。

 無断欠席、という扱いになるのだろうか。落ち着き始めた頭は、そんなことばかりを考えてしまう。


 シャワーから上がれば、そこには新品の下着と、学校指定の体育着が置かれていた。

 表面に"体育委員会"と刺繍が入っているあたり、おそらく何かしらの行事の際にたまたま回収したものか何かだろう。


 しかし、贅沢は言えまい。同じく畳まれていたバスタオルで体の水気を一通りぬぐった僕は、先輩の用意してくれたそれらに身を包み、彼女が待つであろう、リビングにあたる部屋に足を踏み入れた。


 先輩の家は、極端なほどにものが少なかった。

 必要な家具が最低限だけ揃えられており、まるで中小企業の事務所か、そうでなければ簡素なモデルルームのようにも見える、生活感の薄い部屋だった。


 ただ、隅に設置されたパソコンデスクの周りだけが、明らかに異様な雰囲気を放っていた。

 本棚に収められた幾冊ものバインダー。机上に散らばる資料。そして、壁にピン止めされた無数の写真とメモ。


 彼女が待っていたのも、ちょうど机の近くだった。彼女は僕が来たことに気が付くと、手に持っていた数枚の書類を軽く整え、その場に放り出した、


「あら、早かったのね。体は温まったかしら?」


「ええ、おかげさまで」僕は、いまだ乾ききっていない髪を、タオルで押さえながら。

「何を見てたんですか?」


「ちょっとね、色々と確認していたのよ。私も実際に"症候群"を発症した人間を見るのは、久しぶりだから」


 先輩はそんなことを口にしながら、一冊のファイルを手元に引き寄せた。

 国語辞典と同じくらいの厚さがありそうなそれは、遠目に見てもかなり年季が入っているように見えた。


 そして、それを脇に抱えながら、彼女は部屋の中央にあるテーブルセットを指した。座れ、ということだろうか。


「早速だけど、始めさせてもらうわね」僕が腰を下ろすのを見届けてから、彼女は口を開いた。

「この間話したことは、覚えているかしら?」


「まあ、ある程度は、ですけど」


 僕らが夜の校舎にて見えたあの日、"症候群"は強いストレスによって引き起される心の病だと、先輩は言っていた。


 それに、超能力を使えるようになるとか、原因は詳しくはわかってなくて、なぜか僕らくらいの歳回りの子供たちが発症することが多いということ。このくらいだろうか?


「そう、大枠はその通りよ。"症候群"に関しては、未だに研究が進んでいないこともあって、不明な点が多いの」


「でも、先輩はそんな病気のことを、知ってるんですね」


 別に、疑ったり訝しんだりしたわけではないが、我ながら少しばかり、意地の悪い言い回しになってしまったと思う。


 しかし、先輩はそれを咎めたりはしなかった。目を伏せ、落ち着いた様子で続ける。


「……一つずつ、説明していくわ」彼女は、持っていたバインダーを開きながら。

「"症候群"が世界で初めて観測されたのは、二十年前のこの町。とある高校でのことだったわ」


「二十年前……結構、最近なんですね」


「それでも、私たちが生まれる前のことだけどね。とにかく、その学校に常駐していた学校医が、ある暴力事件の折に、主犯格の生徒にカウンセリングを試みた際に発見されたのが、最初の症例だとされているわ」


「ある、暴力事件ですか」僕はバインダーに目を落とす。それはどうやら、新聞の切り抜きのようだった。

 "校内での惨劇"、"白昼の犯行"、"生徒三人が重体"など、どう考えても安穏ではない見出しが躍っている。


「ええ、当時のその学校では素行の悪い生徒も多かったみたいだけど、その時事件を起こしたのはそういった、いわゆる不良たちではなくて、周りの教師たちからも評判の良かった、大人しい生徒だったそうよ」


 先輩の言葉を聞きながら、僕は記事を目で追う。

 "いじめに耐えかねて"、"そんなことをする子には見えなかった"、"キレやすい若者たち"――一部を拾い上げて並べるだけでも、この事件がどのように扱われていたのかを推察するのは容易だった。


「……よくある話ですね。いじめの被害者がキレて、加害者に仕返しをしてしまったなんてのは、それこそ、しょっちゅう報道されてそうではありますが」


「そうね、ここまでであれば、私も同じ意見だわ。けれど学校医は、ある事に気が付いてしまうの」


 そこで先輩は、ページをめくった。

 何枚かの写真が閉じられたそのページには、奇妙なものが写っていた。


 写されていたのは、アスファルトの地面だった。そこに、ミステリードラマでしか見たことがないような、人型に縁どられたロープのようなものが三つ、重なるようにして並んでいる。


「加害者の生徒はね、不良グループの生徒三人を窓から投げ飛ばしたの。現場が二階だったから、そこまで高くなかったのが唯一の救いね。被害者はみんな命に別状はなかったそうだけど、明らかにこれは異常なことだったのよ」


 聞きながら、僕も同じ意見だった。


 相手は暴力を厭わない上に、多勢だ。大人しく窓から投げられたりなどしないだろう。

 両者に相当の対格差があるか、あるいは不意でも突けば一人は投げられるだろうが、そこで取り押さえられるのが関の山だ。


「そう、被害者たちもね、暴れ出した加害生徒をすぐに鎮圧しようとしたそうよ。でも、出来なかった」


「……できなかった? そんなに酷く、暴れていたっていうんですか?」


 先輩はそこで言葉を切った。そして、バインダーから視線を外して、僕の方に向ける。


 落ち着いて見てみれば、先輩の目はとても綺麗だった。ほんのりと赤みの差した瞳は、水晶玉のように透き通っている。

 伊予も色素が薄く、赤い目をしているが、先輩のそれはどこか、精緻な芸術作品を思わせる美しさがあった。


「被害者たちは口を揃えて言ったわ――"()()()()()()()()()使()()()"ってね」


「……超能力、ですか」頭の中に浮かぶのは、先輩がこの間教えてくれたことだ。

「それが"症状"とかいうやつだったってことですか」


「話が早いわね。その通り、この時の加害生徒は、聞くところによれば念動力に近い力を使って、触れもせずに人を窓から落として見せたらしいわ」


 聞けば何となく、"症候群"が世に知られていない理由もわかる気がした。

 そんなことを言ったとしても、気が動転していたと思われて終わりだろう。大人たちは得てして、非現実的な話を信じてはくれない。


 ましてや、そんな超常など握り潰されて終わり。

 世の中の常識というものは、そうして守られているのだから。


「ちなみに、その事件はそのあとどうなったんですか? イジメられてたってことなら、情状酌量とかってのが適用されるんですよね、だったら今は――」


 そこで、彼女は首を振った。とても残念そうに、あるいは、何かを憐れむように。


「……この事件を知る者は、もうこの世にいないわ。加害者は観察中に脱走、今度こそ被害者たち三人を殺害して、そして最後には、自ら命を絶ったの」


「……そんな。止められなかったんですか」


「警察も、まさか"症状"なんてものがあるとは思っていなかったでしょうから。完全に虚を突かれたんだと思うわ」


 僕らの生活において、超能力などというものは実に突飛で馴染みがない。

 もっと言うのであれば、眉唾物の話として実在の有無そのものが取り沙汰されることもしばしばある。


 誰だって、そうだろう。まさか身の回りの人間が超能力など使えるとは思うまい。

 それが高校生の子供ならなおさらだ。想定の机上にすら持ち上げることはないだろう。


「『症状』は人それぞれ、心のありようによって変化するわ。このケースでは念動力だったけど、別のケースでは発火能力や予知能力なんてのもあったらしいわ」


 まずは、今回の犯人の『症状』を把握すること。それが恐らく、必須事項になるのだろう。


 その上で、対策を練らなければならない。

 そうしなければ、僕らもスクラップの一ページになってしまうだろう。


「……なるほど、事情は何となく分かりました」


 手掛かりは、ある。あの夜見せた犯人の動きは、明らかに尋常のものではなかった。

 きっとあそこに、糸口があるはずだ。


 けれど、疑問は残る。


「それで、僕は何をすればいいんですか。言っちゃ悪いですけど、僕は頭がいいわけでも、運動ができるわけでもないですよ」


 自慢じゃないが、没個性という言葉がよく似合うと思う。


 突出して優れている部分はなく、その上、厭世を気取る癖ばかりが染みついている。


 協力を仰ぐなら、もっとふさわしい人間がいるようにも思える。

 単純に巻き込まれたからということで僕を誘うのは構わないが、僕にできることがあるのだろうか?


「そうね……あなたには、いつも通り生活していてほしいの」


「いつも通り? でも、それじゃ犯人を見つけられないんじゃないですか?」


「それでいいのよ」彼女は、どこか確信めいた口調で言った。

「私はね、淡路さんが殺された理由は……恐らく、あなたに近しい人間だったからじゃないかと思っているの」


「……僕が、犯人に見つかってしまったから、淡路が巻き添えになったってことですか?」


 だとするのなら。


 悔やんでも悔やみきれない。

 僕がノートを置き忘れなければ、夜の校舎に踏み入らなければ、淡路は殺されずに済んだということになるのだから。


「そうと決まったわけではないわ。でも、このタイミングであなたと親しくしていた人間が被害に遭うというのは、なんとも出来過ぎていると思うのよ」


「確かに、そうですね。彼女は保健室登校でしたし、正直交友関係も、そこまで広かったとは思いません」


 保健室を訪れる生徒たちとはよく交流していたようだったが、逆に言えばその程度だ。

 噂話などには詳しかったが、友人の話などは聞いたことがなかった。


 そんな彼女が殺されるような理由が、どうしても見つからない。


 ――そう、僕を除けばだ。


「それでもまだ、わからないことはあるわ。どうして患者は、あなた自身を殺さずに、淡路さんを手にかけたのか」


 考えられる可能性は二つ。


 淡路がいることが、犯人とって何か不都合であったか。

 それとも、僕を殺せない理由があったのか。


「現状、断定することはできないでしょう。だからこそ、あなたはいつも通りに過ごして頂戴。患者はあなたの近くにいる可能性が高いし、何かしら、アクションを起こすはずよ」


 それを見逃さないで、と先輩は立ち上がった。話は終わりということなのかもしれない。


 ちらりと、脱衣所に目をやる。乾燥機が止まった音がした。


「……服、乾いたみたいですね。そうしたら僕はお暇します」


「ええ。今の時間からだと午後になるかもしれないけれど、学校には行きなさい。患者は恐らく、あなたの反応を窺おうとしているわ」


 そうかもしれませんね。僕はそうとだけ残して、服を取りに行くことにした。

 靴はないから、ここから家までは裸足で帰らなければならないが、まあ、そうしたらまたシャワーを浴びれば済む話か。


 感覚を取り戻した足裏は、どこか小石で切ったのだろうか、小さな痛みがいくつも走った。

 膿んだら嫌だな、と考えられるくらいには、僕も平静を取り戻したらしい。


 そして、リビングを後にする直前――ふと、新たな疑問が湧いた。

 些事だと切り捨てることもできたし、今ここで確認しておくようなことではないようにも思えた。


 しかし、思考よりも先に言葉が口を衝いていた。


「そういえば、先輩。先輩はどうして、『症候群』の患者を追っているんですか?」


 理由などいくらでも考えられる。殺人事件を止めるためだとか、殺された人たちの敵討ちをするためだとか。


 けれど、先輩の抱える事情はそういった正義感に基づいたものではないような気がしたのだ。

 "症候群"の罹患者を見つけるためなら建造物侵入も(いと)わない彼女は、もっと個人的な価値観に従って動いているような気がしたのだ。


「……どうして、ね。別に、深い意味はないわ、簡単なことよ」


 涼やかな視線が、パソコンデスクの方に向いた。

 溢れんばかりの資料は全て『症候群』に関するものなのだろうか。


 自然、釣られるようにして視線を動かしながら、僕はそれを聞いていた。


「さっき話した、二十年前の事件に出てきた学校医、私の父親だったの――」


 話しながら、彼女はどこか泣きそうな顔をしているように見えた。

 表情筋は動かず、声のトーンは変わらず。けれど、悲しそうな響きだけは、確かに感じ取れた。


 青白い部屋の中、曇天の薄明りに照らされた彼女は、以前までの超然とした雰囲気は薄れたようであり、どこか年相応の、あるいはもっと幼い少女のようにすら見えた。



「――そして、もう、この世にはいないわ」




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