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青春惨禍症候群―壊れた日々と、天秤の君―  作者: 文海マヤ
二章 「壊」
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二章 その5

 ***



「本当に久し振りですよね、二人で帰るのって」


 淡路がぽつりと呟いた。

 鈴を転がすような小さな声が、夕景の中に薄く広がっていく。


 並んで歩く。影が二つ。足音も二つ。

 高校に入ってから、ほんの少しだけ疎遠になってしまった後輩は、それでも変わらないままだった。


「ああ、そうだな」僕は返しながら、その横顔を見遣る。


 淡路蜜柑。

 保健室の主であり、かけがえのない友人の一人。


 初めて出会ったのが中学の頃だから、もう彼女との付き合いも、かれこれ三年近くになるのか。


 友人が少ない僕にとってはありがたいが、よくもまあ僕みたいな変わり者と切れることなく付き合えるものだ。そういう意味では、彼女もまた相当な変わり者なのかもしれない。


 変わり者と変わり者。

 変われない者と変えられない者。


 だからこそピースは上手くはまったのかもしれない。往々にして、人の縁とはそんなものだ。


 ふと、淡路に出会った頃のことを思い出す。確かあれは冬になろうかという頃のことだった。


 出会ったばかりの頃は、本当に――。


「……ちょっと、先輩。聞いてますかぁ?」


 かつての記憶に思いを馳せていた僕の意識は、そうして一気に表層まで引き戻された。


 見れば、淡路が僕の顔を覗き込んでいた。

 頬を膨らませているのは、怒りのアピールだろうか。まったく、感情表現が豊かなやつだ。


「ん、あ、ごめん。それで、どうしたんだ?」


「どうしたんだ、ってもしかして、聞いてなかったんですか?」


「悪い、ちょっとボーッとしててさ。それで、なんの話だっけ?」


 淡路は呆れたように肩をすくめ、ため息を吐いた。

 何事かをブツブツと呟いているのも見えたが、何を言っているかまではわからなかった。


「はあ、いいですよぅ。先輩のそういうのには慣れてます」


「……なんか、バカにしてないか?」


 してないですよぅ、と淡路は僕の前を行く。


 歌うように喋りながら。

 踊るように歩く。


 夕日に照らされた彼女の笑顔がやけに眩しくて、僕は思わず、目を背けてしまいそうになる。


 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、淡路は振り返らないままで言った。


「……私、少し寂しかったんですよぅ。せっかく同じ高校に入ったのに、先輩ったら全然会いに来てくれないんですもん」


「……ああ、それは」


 忙しかった、なんて、誤魔化すつもりはない。


 淡路はいつだって保健室にいる。

 うだうだと駄弁りながら過ごす昼休みや、急ぎ足で帰路につく放課後、会いに行く機会はいつでもいくらでもあったはずだ。


 なかったのは、きっかけの方だ。


 一年。僕と彼女の間に開いてしまった時間は、少なくとも僕にとっては大きなもので、埋めるのはそう容易くなかった。


 だから、自然と足が遠退いてしまったのだ。言い訳をするつもりはないが、理由を挙げるとするならそんなところか。


 ……いや、もう一つある。


「……なんつーか、悪かったよ。顔出そうとはいつも思ってたんだけどさ、なんか、なんとなく行きづらかったんだ」


 一応、入学式に彼女とは顔を合わせているし、四月のうちは何度か足を運んだ。


 それでも、どこかで不安が頭を過っていたのだ。


 一年。僕らが変わるためには、長すぎるくらいの時間だ。

 のうのうと高校生活を謳歌している間に、もしかしたら彼女も変わってしまっているのではないか。


 僕の弱さ――こういうところで、しみじみと実感する。結局のところ変化に耐えられず、受け入れるにも遠く。


 どっちつかずのまま、時間を浪費してしまう。


「大丈夫です、あんまり気にしてないです。そもそもの話、私がちゃんと教室に行ければいいだけのことなんですから」


 そう、淡路は自虐的に笑った。


 その傷がどれくらいの深さなのか、僕は知らない。たぶん、あの学校で一番彼女のことを知っている僕でも、推し量れない痛みを彼女は抱えている。


 なのに、こうして微笑みかけてくれるのは、優しさなのか、それとも。


「いや、それは違うだろ。別に、学校なんかそこまで辛い思いをしてまで通わなきゃいけないところじゃないんだからさ」


「流石、サボり魔の先輩は違いますね」


「茶化すなよ、こないだちょっとサボりに行っただけだろ?」


「それこそ、サボりに保健室を使ったのが初めて、ってだけでしょ? 先輩はもう少し、真面目に学校に通うべきですよぅ」


 違いない、と僕は笑う。釣られたのか淡路も笑う。

 等しく染まった夕暮れに、ただそれだけが環境音を割いて響いている。


 いつかと同じように。

 いつもと同じように。


 僕らは笑い合えた。


 あるいはそれは、僕か彼女、どちらかの時間が止まってしまっていたのかもしれないが。


 知らないが。


 ともかくそれは、僕にとってはかけがえのない事実だった。


 後輩。

 友人。


 言葉はなんだっていい。淡路は、手指で数えられるほどしかない、大切な繋がりの一つだ。


『――あなたの大切な誰かも、被害に遭うかも知れないのよ』


「――――っ」


 山城先輩の言葉が、唐突に胸に去来する。


 こうして穏やかな一日を過ごしてしまうと忘れそうになるが、あの日、僕は死を目撃した。


 名前も知らないし、顔も覚えていない誰か

 しかしそれは、確かに僕と同じ空間にいて、同じ時間を過ごしていた人間だ。


 そんな命が、奪われていた。


 今でも思い出す。へし折れた首、歪なシルエット。教室に腰かけていた、物言わぬ不気味な肉の塊。


 次にそうなるのが――彼女でも、おかしくはない。先輩が言っていたのは、そういうことだろう。


 "症候群"。


 本当にそんな非現実的なものが存在するのか、いまだに信じられない。

 どころか、あの事件のことすらまだ飲み込めていないのだ。


 何かの間違いであってくれればいいと、ずっと思っている。


「…………」


 でも。


 でも、もし間違いなんかではなく、何もかもが現実で、実在しているもので、僕や淡路、佑香や因幡が危険にさらされたとしたら、僕は。


 僕はどうするのだろう。

 僕はどんな風に、変わればいいのだろう――。


「……先輩、どうしたんですか? なんか、怖い顔をしてますよぅ」


 気づけば、淡路が僕の顔を覗き込んでいた。その表情も、何だか幾分心配そうに見える。


「さっきからなんか、上の空みたいですし……なにか不安なことでもあるんですかぁ?」


「いや」その返事はほとんど反射的に出てきた。

「まあ、ちょっと、こないだの小テストの結果が気になっててさ。流石に0点はないと思うけど、あんまり悪いと格好がつかないからな」


 僕は作り笑いを浮かべながら、そう繕った。


 笑うのは、そんなに得意じゃない。

 だから、不自然な笑顔になってしまっただろうし、その違和感には、彼女も気づいたはずだ。


 しかし。


「……そうですか。ていうか、ほら、やっぱり勉学に支障が出てるじゃないですかぁ」


 淡路はそれに触れたりはしなかった。


 付かず離れず。なのに、代理の効かないただ一つ。

 それが僕らの関係。

 淡路蜜柑と、信濃一樹の人間関係。


 それはこれからも変わらない。変わらない、はずだ。


「いいんだよ、僕は。何になりたいわけでも、何かがしたいわけでもないんだ。まだ、そういうことが上手くイメージできなくてさ」


「……でも、文系に進んだんですよね?」


「とりあえず、な。関数と漢文と、どっちがいいかを天秤にかけて、マシな方を選んだだけさ」


「天秤に、かけて……ですか」


 反芻する淡路の声を聞きながら、僕はそれに既視の気配を感じていた。

 正体はわからないままで、結局そのまま、曖昧に濁したのだが。


「……まあ、これって決まった答えがあるのが苦手なんだよ、僕は」


 けれども、それはもしかすると、本心の上澄みだったのかもしれない。

 

 僕は、そんなことすらも知らない。

 自分の心の形だってわかっちゃいない。


 だから、何者にもなれないし、なりたくない。

 宙ぶらりんの、中途半端だ。


「……そうですか、そうですよねぇ。先輩、優柔不断ですもんねぇ」


「その言い方には語弊があるな。優柔不断なんじゃなくて、単に物事を先伸ばしにするのが得意なだけだ」


「それ、自慢になりませんよぅ」


 与太話。気づけば、僕らの岐路まではあと数分というところだった。


 一人で歩けば長い道も、こうして二人で行けばほんの一瞬に感じる。


 この時間が終わるのは、ほんの少し惜しくもあるが、それも大したことではない。


 僕らの日々はまだ続く。

 僕らの青春はまだ続く。


 そして、そのなかで何度となく、僕と彼女は同じ道を歩くだろう。

 時間を共有するだろう。もしかしたら明日の夕方も、こうして並んで帰るのかもしれない。


 なら、これはひとときの別れで。

 ほんの少し幕間が訪れるというだけのことだ。


「……私には、やりたいことはないですけど、なりたいものならありますよぅ」


 淡路がそう口にしたのは、僕らの分かれ道まであと数歩といった所だった。

 あまりにも平然と言うものだから、僕も足を止めようとはせず。自然、そのまま分岐点に立ち入った。


「なんだよ、それ。初めて聞くぞ」


 僕は直進、彼女は横断。だから、車が途切れれば僕らは離ればなれになる。


 聞き返してはみたが、別に答えが聞きたいわけではなかった。

 興味はあったが、あくまでも、そういう会話の流れだからというだけのことで。


 それに、今日聞けなくても、いつでも聞けることだと思ったからだ。


 交差点。車通りの多い国道の信号待ち。赤が青に。青が赤に。それぞれが変わる、その刹那。


「私は――」


 発進する車の音が、彼女の声を掻き消す。

 薄い唇の動きを目で追ってみたが、読むことはできなかった。


 淡路はその一言二言を、やっと、という様子で言い切ると、じっと僕の目を見つめてきた。


 何かを期待するように。

 何かを求めるように。


 僕はそれに、どう答えれば良かったのだろうか。

 どう答えるのが正解だったのだろうか。


 わからないから。

 聞き逃してしまったから。


 僕はこの一瞬を、いつまでも後悔することになる。


「……ごめん、淡路。全然聞こえなかった。もう一回お願いしてもいいか?」


 鈍感な僕は、愚鈍な僕は、深く考えもしないで、そう口にした。


 だって、そうだろう。ただの世間話だと思ったのだ。

 由無(よしな)し言、それこそ、いくらでも話す機会のあるような。


 だから。

 だから?


「……なんでもないですよぅ!」


 淡路は頬を染めながら、奇妙なくらいに大きな声でそう言い放った。

 そして、僕に背を向けると、勢いよく駆け出してしまった。


 呼び止める間もなく、そのまま横断歩道の向こうまで。ぐんぐんと小さくなっていく背中を見送りながら、僕は首を傾げていた。


 変な奴だな、と、その程度の感想しかなく。僕は再び変わった信号を渡り、そのまま歩いていった。


 また、明日聞けばいい。

 また、明日会えばいい。


 そう、思いながら。


 ばいばい。

 さようなら。

 また明日。 


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