二章 その4
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放課後の保健室は静かなものだった。
例の事件のせいで、校内の部活動はまとめて活動停止になってしまった。
佑香たちの委員会も、暗くなる前には解散になるらしい。
とくれば、保健室の世話になるものも必然的に少なくなる。現に、養護教諭すらもがどこかに姿を消してしまっていた。
だというのに。
「もう、先輩。わざわざ読書するために、ここまで来たんですかぁ?」
薬品棚を整理しながら、校内唯一の保健委員にして保健室の主、淡路蜜柑は小さくぼやいた。
碌に人も来ないというのに、下校時間のギリギリまで開けておこうとするのは、彼女の真面目さゆえだろうか。
どうあれ、巡回の教師にドヤされることもなく時間を潰せるこの場所の、居心地がいいのは間違いなかった。
そんな彼女を横目に、僕はベッドの上で有佐から借りた文庫本をパラパラとめくっていた。
『ロミオとジュリエット』。宣言通りにシェイクスピアの著作であり、名前こそ有名であるものの、しっかりと読むのはこれが初めてだった。
「いいだろ、家に帰るとほかの誘惑が多くてさ、あんまり読書に集中できないんだ」
「それはわかりますけど、だったら図書室でいいじゃないですかぁ」
「図書室は広くて落ち着かないんだ。その点ここなら、ふかふかのベッドもあるしな」
「……そのまま寝たら、私施錠して帰っちゃいますからね」
いつになく、じっとりとした目で睨んでくる後輩の言葉には、半ば脅しのような響きがあった。
本気でやらないだろうなと恐れつつ、その小さな背中を目で追っていると、仕事がひと段落したのか、一つ息を吐いてから、くるりと振り返った。
「まあ、いいですよぅ。一人でいるの、私も寂しいですし、頻繁に顔出してくれるのもうれしいですし、話し相手になってくれるのなら、私としてもすごく助かりますよぅ」
ぱたぱたと、小さな上履きを鳴らしながら、彼女は僕の方に近づいてくる。
無警戒な足取りは、僕のことを信用してくれているからなのか。どうあれ、淡路は僕の寝そべるベッドの足元に腰を下ろすと、表紙に目を這わせた。
「へえ、意外ですね。先輩、何読んでるのかと思ったら、ロミジュリですか」
「ああ、知り合いから進められてさ。おんなじクラスの友達の、双子の妹さんから」
「双子……ああ、対馬先輩ですね」
彼女はこともなげに答えた。
佑香とはほとんど話したこともないだろうし、教室に行っていない彼女は先輩の顔などほとんど覚えていないのだと思っていたが、違ったのだろうか。
「へえ、知ってるんだな。どこかで会ったことがあるとか?」
「いえ、先輩の学年に双子の生徒さんって、その人たちしかいないですから」
なるほど、そういうことか。
それならば、出席簿の取りまとめや管理もしている彼女が把握しているのは何となく納得がいく。
「妹さんの方ってことは、有佐さんでしたっけ? なんでロミジュリなんでしょうねぇ」
「わからん、ただ、ハッピーエンドが読みたいって伝えたら、これを渡されたんだ」
「……先輩、ロミオとジュリエットって、ゴリゴリのバッドエンドですよぅ」
「話が違うぞ!」僕は勢いよく本を閉じながら、思わず叫んでしまった。
そう考えると、最後のセリフは随分と皮肉が効いている。
やはり嫌われていたのだろうか。
まあ、姉と勘違いされた上に読書の邪魔までしてしまったのだから、何を言われても仕方ないとは思うが。
「それはないと思いますよぅ」淡路が、僕の手から本をひったくる。
「ご本人も言っていたんでしょう? 本当に嫌いだったら本を選んだりなんてしませんよぅ」
「そうか? 嫌がらせとか、そういうのではなくて?」
「どうでもいい相手に嫌がらせなんてしませんから。好感の反対は嫌悪じゃなくて、無関心なんですよぅ」
そういうものなのか。だとすればこれは、彼女なりのユーモアだったのかもしれないなと思った。
もしかすると彼女は、あの場で指摘されて一笑い取るつもりだったのかもしれない。
悲しいかな、僕にはそれを理解するような教養がなかったわけだが。
となれば、なるほど。ロミオとジュリエットはあつらえ向きだったというわけだ。
「……それ、最低ですよぅ。ウケ狙いのネタを分析して後々納得されるって、一番キツいやつじゃないですか」
淡路はどこか侮蔑するような目で、僕を見つめていた。
曲がりなりにも敬意を払われていると思っていた後輩にそんな目で見られたのは初めての経験だったが、なんというか、こう。
「……淡路、その目。もっと普段からしてくれてもいいんだぞ」
「先輩、もしかして目が膿んでるかもしれませんよぅ。今、消毒用のアルコール液持ってきますね」
「待て! 一生見えなくするのはあまりに罰が重すぎる!」
僕の眼球に度数およそ七十度のアルコールを噴射してくる後輩を何とか抑えながら、僕は考える。
『そんなあなたには、シェイクスピアがお似合いですよ』
そこに込められた意味は、本当にそんな単純な皮肉だけなのだろうか。
悲劇を嫌った僕の感性は、決しておかしなものではなかったはずだ。
生きるか死ぬかが問題なのだとすれば、誰だってとりあえず生きるほうを選ぶだろう。僕ら人間は、何も選ばなくとも惰性で息をすることはできるのだから。
もっとも、それが緩慢な自殺とどう違うのかと問われれば、それまでだが。
「まあ、先輩は女心をもっと勉強した方がいいってことですねぇ」
淡路はアルコールのボトルを片付けながら、いかにも適当そうな様子でそう結論付けた。
辺りには消毒液の香りが漂っていた。
僕の目に直接混入することは避けられたが、どうやら相当量を噴霧したようだ。微かにワイシャツが湿っているのも、決して汗のせいではないだろう。
女心か、と独り言ちる。
ただの心すら、理解するのに難儀する僕らヒトモドキに、それは随分と難しい出題内容に思えた。
駆け引きだとか、気持ちを汲むだとか、そういった機能は僕には内蔵されていない。
次回のアップデートをお待ちください。次回予定は来世です、といったところか。
「まあ、その鈍感さも先輩のいいところですよぅ」
口にしながら、淡路はゆっくりと立ち上がった。
そろそろ校舎を出なければならない。穏やかな時間は何時までも続かず、いつかは閑話にも休符が打たれる。
そして、また次の閑話が始まるのだ。所詮は僕らの青春など、そうして紡がれる物語の息継ぎの積み重ねでしかないのかもしれない。
彼女は机に近寄っていくと、書類や荷物をまとめ始めた。そして、学校指定の小さなカバンに、それを詰め込んでいく。
「お、もう帰るのか?」言いながら、時計に目をやる。
短針は十八時を指そうとしていた。確かにそろそろ家路を急がなければ、暗くなってきてしまうだろう。
「ええ、私も流石に、一人で夜道を帰るのは怖いですし、そろそろ校舎からも追い出されちゃいますから」
「そうか、じゃあ、途中まで送ってくよ。折角だし、駄弁りながら帰ろうぜ」
「……送り狼にならないでくださいよぅ?」
ならねえよ。僕の叫びが、染まる校舎にぼんやりと響いていった。




