二章 その2
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結果から言うと、因幡は昼休みも呼び出された。
どうやら先ほどの時間も、説教の最中に悪態をついて逃げ出してきたようだった。
昼休みの鐘が鳴ると同時に、体育教師を同伴して現れた現国教師によって連行されていった彼がどんな目に遭うのかは想像に難くない。
いい薬になると信じるしかないだろう。合掌で送り出した僕は、しかし、窮してしまった。
昼休みは何をして過ごそうか。
普段であれば二人と駄弁っていればいつの間にか終わっているのだが、今日はそういうわけにもいかない。
二人のほかに、親しい友人もいない。
無理に輪に入っていくのも避けたいところだし、どうしたものか。
三日前なら先輩を探しに行っていたかもしれないが、今彼女のもとに行ってまたわけのわからない誘いを受けても困る。
となれば、行き先は一か所しかないかと、僕は教室を後にした。
保健室。
淡路は必ず、そこにいるはずだ。
弁当を食うために保健室に行くというのもなんだか不思議な話だが、別に悪いことをしているわけではない。
弁当をぶら下げ、廊下を歩く。
日に照らされ、人の気配のある校舎の中は、この間忍び込んだ時とは全く違う場所のようだった。
窓から差し込む陽光は眩しく、夏の空気はどこか湿った土の匂いを思わせつつも、じっとりと肌に浮く汗はべたつかずに流れていく。
教室から漏れてくる冷房の風を浴びながら、僕はふと、不思議なことに気が付いた。
あの時、フードの人影は廊下を駆けながら、ロッカーや窓に飛び移りながら、こちらをすさまじい速度で追いかけてきた。
その際に、随分と勢いよく移動していたはずだが、ロッカーに歪みのようなものはなく、窓には靴の跡すらなかった。
後から痕跡を消した可能性もあるが、そもそも、体重をかけて踏み切ったのなら窓には罅の一つでも入りそうなものだが。
「……いや、待て待て。僕には関係ないことだ」
深入りしないと決めたのだ。そんなことを考えても仕方がない。
これ以上思考が散逸する前に、とっとと保健室まで行ってしまおう。
そう考えて、視線を前方に向けた、その時だった。
「……ん? あれは」
僕の目線の先、廊下の向こうを、見慣れた横顔が通り過ぎていくのが見えた。
茶色みがかった、肩口ほどで切り揃えた髪。アーモンド形の目と、鼻筋が通った顔立ち。
それは、間違いなく僕の友人、対馬佑香だった。
「佑香……あいつ、委員会終わったのか?」
いや、それにしては早すぎるだろう。
まだ昼休みが始まってから十分と経っていない。
先ほどの彼女の口ぶりからして、そんなに早く終わる集まりだとは思えなかった。
なら、何か資料でも取りに行く途中なのかとも思ったが、どうもそういう様子ではなかった。
足取りに急いだりしている様子はなく、どこかのんびりと、余暇を潰すような雰囲気があった。
となれば、可能性は一つしかないだろう。
「……まさか、あいつもサボったのか?」
僕は頭に閃くものがあった。これはチャンスだ。
この間は僕がちょっとサボっただけで、理不尽に奢らされたのだ。
その彼女がこうして、隙を晒している。
おそらく向こうは、僕に見つかったことに気が付いていないだろう。
こっそり後をつけて、この間の仕返しとばかりに文句を言ってやろう。
そう考えた僕は、奇しくも数日前と同じような調子で、足音を殺して歩き出した。
階段を下りていく彼女は、どうやら図書室に向かっているようだった。
佑香が本を読んでいるところなど、ほとんど見たことがない。
彼女はどちらかと言えば、体を動かすのが好きなタイプだったはずだ。
彼女が図書室に入ったのを確認してから、僕もその後に続く。
本棚の陰から伺えば、彼女はどうやら、海外の文学作品の並ぶ棚に興味があるようだった。アレクサンドル・デュマの背表紙に、目を這わせながら、いろいろと物色しているようだった。
おかしい。
あいつがそんなものを読んでいるところなど、見たこともない。
因幡ほどではないが、佑香も決して成績のいい方ではなかったはずだ。
活字を読んだら頭痛を起こすタイプだと思っていたのだが、こんな趣味があったのか。
彼女はしばらく本を出したりしまったりを繰り返していたが、やがて目当ての一冊を見つけたのか、上機嫌でこちらを振り返った。
それと同時に、僕はわざと彼女の視界に収まるように本棚の陰から飛び出した。
佑香は僕の姿を目にすると、驚いたようにその目を見開いた。
こんなところで会うと思っていなかったのか、それとも、サボりの場面を見つかってしまったことへの驚きか。
どちらにせよ、好都合だった。
「お、佑香じゃん。こんなとこで会うなんて奇遇だな」
僕はわざと、とぼけたようにしてそう言った。
奇遇も何も、後をつけてきたのは僕の方なのだが、それは言いっこなしだ。
しかし、彼女の反応は妙だった。
てっきり驚愕か、それに伴う動揺が見られると思ったのだが、ただただ困ったように目を泳がせ、「はあ……?」と首を傾げるだけだった。
なんだ。
なんだ、その反応は。
とぼけるつもり――とも違う、予想外のリアクションだった。
まるで、変な奴に絡まれて困っているかのような、そんな様子だ。
それは違うだろう。
誤魔化すにしてもやり方があるだろう。その、人に見られたら洒落にならないやつはやめてほしい。
ここは昼休みの図書室、人もそれなりにいるのだ。僕がナンパに失敗したみたいな目で見られるのは納得がいかないぞ。
「お、おい、お前、今日は委員会だって言ってたじゃんか」
「……私が、委員会ですか?」佑香は表情に不審の色を強める。
「私、委員会には入ってないですけど……」
「そんなわけがあるかっての、こないだだって、僕がサボったせいで体育委員として怒られたって、散々愚痴ってただろ」
彼女はそれを聞いても、眉を寄せるばかりだった。
まさか本当に忘れてしまったということもないだろう、と次の一言を待っていると、不意に彼女は何かを思い出したとでも言いたげな調子で、眉を上げた。
「……あ、もしかしてあなた、シナノさんですか?」
「シナノさん、ってそんな他人行儀な……」
ぺこりと頭を下げる彼女の様子は、どこか違和感があった。
声も、見た目も、先ほど話していた時と変わらないというのに。
「……ん、そういえば、何か――」
顔を上げた佑香の顔を目にして、ようやく僕は引っかかっていたものの正体に気が付いた。
そして、喉元に上がってきた『まさか』を形成し、口にしようとした――。
――その、瞬間だった。
「……あんた、そんなとこで何してんのよ」
背後から聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
けれど、ありえない。それは僕の後ろから聞こえてきてはいけないものだ。
思わず振り返れば、そこには、佑香が立っていた。もちろん前方には先ほどまで話していた彼女がいる。
二人の佑香が、僕の目の前に揃っている。
これはどういうことなのか、混乱した僕は、それでも何とか言葉を絞り出す。
「何って、お前こそ委員会じゃなかったのかよ、なんで……」
「私は去年度の資料を取りに来ただけ。たまたま通りかかったらあんたがいるのが見えたから、ちょっと覗いてみたら……まったく」
彼女は腰に手を当てながら、大きく息を吐いた。これだ。これがいつも通りの佑香だ。
じゃあ、こっちは何者なのだ、と目を白黒させる僕に、彼女はわかりやすく答えを提示してきた。
「――それで、あんた、うちの妹に何か用なの?」
妹?
僕は恐る恐るもう一人の佑香の顔を見た。
瓜二つ、これっぽっちも差異がない、まるで鋳型でも用いて作られたかのような、同一の見た目。
そんなのありかよ、と項垂れる僕に、対馬姉妹の視線が突き刺さる感覚だけが、強く背中に残っていた。