二章 その1
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「しーー、なーー、のーー。ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
どこか遊離していた僕の気持ちは、馴染みのある声に引き戻された。
見れば、僕の机に半分ほど顔を埋めながら、伏し目がちな視線を向けてくる佑香の姿があった。
彼女は綺麗に結われた、前髪の右側の房をいじりながら、今日も今日とて頬を膨らめている。
今日は七月三日。
学校に忍び込んで、フードの人影に追いかけられたあの夜から三日が経っていた。
僕らが見たあの死体は、結局朝になるまで発見も通報もされなかったようで、早朝に突然連絡網が回ってきた。
そして、土日を挟んで、また今日から何事もなく再開となった。
二年六組の教室はいまだに封鎖されてしまっているため、僕たちは適当な空き教室を回りながら授業を受けることになったが、それだけ。
僕らの日常はまだ、辛うじて形を保っていた。
「おお、悪い、ちょっとぼーっとしてた。それで、なんだっけ?」
僕はバツの悪さを誤魔化すために、笑いを交えながらそう口にした。
「なんだっけ、じゃなくてさ……ほら、夏休みの話! 前倒しして、急遽来週から夏休みに入ることになったって話、先生がしてたでしょ?」
「あ、ああ。そうだったっけ。確かそんな話もしてたような?」
僕は頭の中を探ってみたが、だめだ、本当に覚えていない。
ホームルームか何かで話していたのかもしれないが、その時の僕は恐らく、マトモに聞いていなかったのだろう。
「もう、信濃ったらさ、ここのところおかしいよ? 上の空っていうかさ、心ここにあらずっていうか?」
「……すまん、ちょっと考え事をな。色々、思うところがあってさ」
「それは……そうだよね。あんなことがあったんだもんね」
そう口にした彼女は、ほんの少しだけ表情を暗くして、横合いに目をやった。
二限終わりの、短い休み時間。普段であれば喧噪で満ちているはずの教室も、どこかいつもよりも活気を失っているようだった。
みな、何かから目を背けるようにしてぼそぼそと、覇気のない声で言葉を交わしている。
その理由がこれなのだろうかと、僕も佑香に倣い、教室の前方にある一つの席に目をやった。
そこには――花瓶が一つ。白と薄い青が目に鮮やかな、慎ましい花の房が揺れていた。
あの日死んでいたのは、僕のクラスメイトだった。
クラスメイトとはいえ、僕は碌に話したこともない、女子グループの一人だった。
正直、あの場においても顔に見覚えすら感じなかったのだから、僕自身に思うところはない。
けれど、この狭い教室から、パッキングされた集団から一人欠けたというのは、言いようもないほどに不安感を煽るものではあった。
どこか他人事だったはずなのに。
気づけば、火の手はすぐそこまで来ていた。
僕ですらそうなのだから、きっと佑香などはもっと堪えただろう。
今朝、彼女が見せた顔は、今よりも悲痛そうであったことを覚えている。
「……ショックだし、怖いけどさ。私らがいつまでも暗くしてるわけにはいかないじゃん? だからさ、楽しい話がしたいなーって、思ったんだけど」
彼女はどこか、こちらの様子を窺うように言った。
もしかして、心配させてしまったのだろうか。
僕はそこまで傷ついてはいないのだが、気を遣わせるのも忍びない。
「それもそうだよな。せっかく夏休みも前倒しになったんなら、みんなでどっか遊びにでも行くか」
「お、そう来なくっちゃだよ。そのためにも、早く解決してほしいよね」
「……ああ」僕は、頭の中の感情を、努めて表に出さないようにしながら。
「その通りだ。きっとすぐに警察が捕まえてくれるさ、そしたら因幡も誘って――」
と、そこまで口にしてから、ようやく僕は気づいた。
「そういえば、今日は因幡を見てないな。いつもなら、ノート見せてくれだのなんだのって絡んでくるのに」
いたらいたでやかましいが、姿が見えないのも心配だ。
確か、ホームルームの時にはいたはずだが。いったいどこに行ってしまったのか。
「ああ、あいつならさっき先生に呼び出されてたよ」佑香は至極つまらなそうな様子で。
「今日提出の現文の課題、丸写ししてたのがバレたんだって」
なんだそりゃ、と思わず呆れそうになってしまったが、ある意味では彼らしくもあるか。
いきなり飛び出してきた日常的なセリフに、呆れつつもなんだか安心した。
先輩の話していた『症候群』も、あの日見た死体も、何もかもが嘘っぱちであると、そう思い込んでさえしまいそうだった。
白昼夢、そうでなければ、転寝でもしたときに見てしまった夢か。
……それでいいのだ、どうあれ、僕が考えるようなことではない。
頭を振りながら、再び脳髄に染み入ろうとしていた思考を追い出していると、不意に佑香が声を上げた。
「あ、そうだ信濃。今日は昼ごはん一緒に食べられないし、一緒に帰るのも無理っぽいから、あとで因幡に伝えといてよ」
彼女は思い出した、とでもいうような調子だった。
「何かあったのか?」と首を傾げる僕に頷きを返してから、彼女は続ける。
「それがさ、夏休みが終わったらすぐに体育祭じゃん? 今回前倒しする関係で、準備期間とかも見直さないといけないみたいでさ。体育委員と生徒会でいろいろと話し合ったりしなきゃなんだって」
「それは……大変だな。帰りは一人になるのか?」
「ううん、お父さんが迎えに来てくれるって。このまんまだと二人と帰るのは、今学期では先週末で最後だったって感じになるかも」
そうか、と返しながら、僕は内心寂しく思っていた。
買い食いをしながら神社に溜まるあの時間は、そんなに嫌いではなかったのだが。
とはいえ、両親が送り迎えをしてくれるなら確かにその方が安心だろう。
こんな状況だ。仕方のないことだと言い聞かせながら、僕らがとりとめのない話を重ねていると、勢いよく扉が開いて、見慣れたツンツン頭が入ってきた。
「はー! やってらんねえよ、親友!」
そう、ため息交じりに言いながら僕と佑香の間、机に腰かけるようにして割り込んできたのは因幡だった。
相当絞られたのか、眉間には深く皺が刻まれていた。
その様子がなんだかおかしくて、僕らはどちらともなく、笑みがこぼれてしまう。
「あ、親友、お前笑っただろ! 佑香まで、笑い事じゃねえんだって、俺、夏休み補修になるかもしんないんだぞ!?」
「ああ、そりゃ自業自得だな。ちゃんと進級できるように、大人しく通っといたほうがいいんじゃないか」
「そうそう、それにほら、そろそろ席着かないと。愚痴ならまたあとで聞いてあげるからさ」
納得いかねー、と吠える彼を席まで追いやってから、僕も席に着く。
それから一分もしないうちにくたびれた容姿の先生が入ってきて、号令がかかった。
見慣れた光景が、続いていく。退屈な授業の時間は、何一つとして代わり映えがしなかった。
――確かに教室に生まれた、欠落に目を瞑れば、だが。