緊張
朝、八時。
私は家を出て、メガネを、外す。
目に映るのは、ぼやけた、風景。
目の表面に感じるのは、ほのかな、風。
目玉が今、大自然の空気に触れている。
目玉が今、力を抜いて開放されている。
私はかなり、目が悪い。
メガネなしでは、足もとに転がる小石の存在に気がつけない。
私は相当、目が悪い。
メガネなしでは、道と溝の境目が分からない。
朝目が覚めてから、夜眠る時まで、ずっと私の目玉は緊張している。
眼鏡で矯正された目玉は、遠くを見るために頑張っている。
眼鏡で矯正されている目玉は、力を抜くことを許されない。
……たまには、目玉を息抜きさせてあげたいと、思ったのだ。
通い慣れた職場へと続く道のりは、車通りもまばらで、お年寄りがゆっくりと散歩を楽しめるような道だ。
小学生の通学路になっているので、歩道がきちんと確保されているし見通しも良い。
眼鏡をはずして、輪郭の存在しない世界を歩くことは…難しくないと判断した。
何一つ矯正されていない、緊張感のない目玉が捉える世界。
何一つ矯正されていない、緊張感のない目玉のまま歩く世界。
気のせいかもしれないが、ずいぶん目玉がのんびりしている。
気のせいかもしれないが、かなり目玉の疲れが癒されている。
気のせいかもしれないが、とても目玉が気持ちよく呼吸をしている。
朝、15分間の、目玉が喜ぶ、リフレッシュタイム。
恐ろしい暴漢が狙っていても、私は気が付かない。
狡賢い盗人が狙っていても、私は気が付かない。
図々しい人が狙っていても、私は気が付かない。
朝、15分間の、無防備な時間。
今、襲われたら、すんなりやられちゃうんだろうなあ……。
今、狙われたら、何もできないでおたおたするんだろうなあ……。
今、見つかったら、隠れることもできずに捕まっちゃうんだろうなあ……。
朝、15分間の、何も考えなくていい時間。
襲われたら、全部終わるかな?
狙われたら、何か変わるかな?
見つかったら、どうにかなるかな?
ああ、職場が、見えてきた。
今日も無事に到着してしまったよ。
何一つ状況が変わらないまま、今日もいつもの日常が始まる。
私は襲われず、元気に働くことができる。
私は狙われず、時間通りに職場に入ることができる。
私は見つからず、誰とも話さず仕事に打ち込むことができる。
私は眼鏡をかけ、目玉を緊張させた。
景色にピントが合い、目玉だけでなく自身の体にも緊張が生まれた。
さあ、今日も、一日……働かなければね。
賃金の出ない、親への給仕。
私情が出せない、親への服従。
言葉の出ない、親との日常。
ああ、ピントの合った私には、見たくない現実がよく見える。
私は、視線を下げたまま。
ピントの合った、汚れたスニーカーを脱ぎ捨てて。
自分の仕事に、無言で取り掛かり始めた。