10:明日の予定は特等席で
唾液の採取後、一月は彼の身体に触れていく
小さな一月を抱きかかえていた肢体は当時のままと相違ない
作業が進むうちに、ベッドのシーツには汚れができていく
血液は何度こぼしただろうか。狭い空間だ。汗も必然的にかく
むしろ、これぐらいの汚れで済んだのが奇跡と思えるぐらいの、綺麗さでもあった
「きついか?」
「いえ・・・・続けてください」
息を切らしながら雨葉はそう言った
いつ三国や浩二が来てもいいように休憩しながらも、急いでなおかつ簡潔に採取を続けたのだが・・・流石に雨葉の体力も限界に近いようだ
気絶している状態で、進められることは進めていたのだが・・・かなり負担を与えていたらしい
「・・・これで最後だ」
「わかっています。最後に楽なものを残してくれたんですね」
「体力使わずに済むだろう。涙なんて、終了間際には流れているだろうし」
試験管の中に、緑色の瞳から流れる涙を数滴入れ込む
これで一通りの採取は終わった
「・・・博士も疲れたでしょう?」
「まだ平気だし、鮮度が高いうちにいくつかやっておきたいことがある」
「なるほど。お手伝いは?」
「君は負担を強いた。だから、今はゆっくり休むとい・・・い?」
一月の身体がぐらりと動き、ベッドの上に倒れこむ
「むう・・・」
採取対象だった雨葉の体力消耗以上に、集中力を使っていた一月の体力もすでに限界を迎えていた
「・・・疲れたからひと眠りするか」
「鮮度はどうしたんですか?」
「まあ、ある程度はな。優先順位が高いものは作業と並行して行っていたし・・・」
「・・・道理で、ベッドの周辺に見知らぬ実験道具が増えているんですね」
一月が視線を離した隙に、あっという間に服を着終えた雨葉
昔も早着替えが上手だったが、それは死してなお変わらないらしい
ベッドサイドに腰かけて、疲れ果てた一月の頭を撫でて労わる言葉をかける
「お疲れ様です。空気の入れ替え、してもいいですか?」
「むう・・・リモコンで操作したらいい。これを」
「はい。では開けますね」
雨葉はリモコンを受け取り、ベッド横のカーテンを開いて、生暖かい空気を外に出す
空気の温度の違いに一月も雨葉も驚いて身体を震わせるが、しばらくしたら慣れた
そして、自分の限界を見誤っていた一月は枕に顔を埋めて項垂れる
「・・・雨葉」
「なんでしょう」
「膝枕」
「はいはい」
昔のように、さりげなく一月は膝枕を雨葉に要求する
小さい頃から、雨葉・・・天羽の膝は一月の特等席だった
何をするのにも膝の上。食事も、寝るのも、本を読むのも全部ここだった
それは、彼が死ぬまで変わることはなかった
雨葉は自分の身体の位置を調整して、自身の膝の上に一月の頭をのせる
「最高級枕も叶わない柔らさ。そしえ仄かな温かさ。全てにおいて完璧すぎる」
「・・・死人ですが、人肌の温もりはあるのでしょうか」
「あるな。心臓も動いていたし、検査結果をざっくり見ても、パージ鉱石を要する以外は普通の人間と大差なかった」
「なるほど。けど、そこが一番大きい部分ですよね」
「ああ。これまで、パージ鉱石には物を浄化する力しかないと考えられていた」
けれど、目の前にいる雨葉たちは、パージ鉱石の想定をひっくり返すほどの存在だ
浄化以外にも可能性があると、考えされられる発見なのだ
「あの鉱石にはまだ可能性というものに溢れている。調査をすべきなのだが・・・」
「俺と一緒なら博士は触れられると思いますよ」
一月が何もしないままパージ鉱石に触れてしまえば、彼女はパージ鉱石の「浄化」の影響で白死の餌食になってしまう
対策から考えなければならない
今回採取した雨葉の一部からその対策の可能性を見いだせればいいのだが、と考えていた一月の思考を止める言葉を雨葉は告げた
「どういうことだろうか?」
「これは、俺の物としての性質です。人造生霊は媒体にした物に応じて、物の性質が使えるようになります」
「君の媒体は傘だが、何ができるんだ?」
「俺の性質は「万物を防ぐ力」です。雨をはじく役目を、万物に切り替えたという考えで構いません」
「わかった。つまり、君と一緒ならば僕はパージ鉱石の影響を受け付けないという考えでいいのだな?」
「はい。紳也さんが自ら実験されていましたが、俺の媒体を持った状態でもそれは適用されるそうです」
「明日、試しに行こう。物は試しだからな」
「わかりました」
明日の予定を立てて、一月はやるべきことを終えた
本格的に寝る体制に入る。目を閉じて、太ももの柔らかさと温もりを味わった
「しゅここ・・・・・・しゅここ・・・・・」
特徴的な寝息を立てて、鼻提灯を出す一月の寝姿はかつてと全く変わらなくて、雨葉も笑いが零れてしまう
一月が起きている間は、天羽としての記憶がないように振る舞わないといけない雨葉だが、眠っている間ぐらいはいいだろうと油断しかけていた
そんな中だった
「・・・やっと、振り切りましたよ博士ぇ!」
「しつこかったね・・・」
「・・・つかれた」
「お疲れ、銀」
扉を勢いよく開ける浩二と、疲れ果てた三国
そしてその後をついてくる雨葉自身も見知った二人の顔
「・・・お兄さん」
「お疲れ様、三国君。疲れているけれど・・・」
「一月は、なんで眠っているんですか。お兄さんが眠らせたわけではないですよね」
「断じて違うよ。いっちゃんは俺の一部を採取して疲れただけだから。人造生霊と人間、そして生霊との違いを・・・そして、人造生霊から世界を救う一歩を見つけるために」
「・・・それなら構いませんけど」
「・・・・」
浩二は三国とお兄さんの様子を見ながら、少しだけ疑問に思っていた
話しぶりからして、二人は面識があるのだろう
一月はお兄さんに懐いているし、三国も慕っているのかと思えばそうではないらしい
それ以上に、三国とお兄さんの間には深い溝があるような
そんな気さえしたが、彼の思考は、彼の道具になった御風の手で妨害される
「何考えてんだよ」
「いや、ちょっと・・・あの人の事が気になって」
「雨葉か?」
「あ、はい。黒傘雨葉さん、でしたっけ?」
「どのあたりが気になる?」
その話を振られるとは思っていなくて、浩二は驚きながらも話を続ける
「一月博士と三国さんとの関係が個人的に気になります。それに・・・」
「それに?」
「道中聞かせてくれましたよね。人造生霊になった「素体」の昔の記憶を思い出させないこと」
「ああ、そうだな。思い出してしまえば、俺たちは人間時代に抱いた絶望に飲まれて死ぬそうだ。現に、実験過程で何人かそれが原因で死んだらしい」
「話しぶりからして、雨葉さんは記憶があるように見受けられるのですが、彼はなぜ無事なのかわかりますか?」
浩二はダメ元で御風に聞いてみる
彼は、なんとなくだが答えてくれないだろうと考えていたからだ
しかし、御風は口を開いて浩二の問いに答えてくれる
「・・・黒傘雨葉は特別だって聞いている」
「特別、ですか?」
「ああ。とある少女への愛情だけで記憶保持に至った個体だとな」
「・・・その少女が」
「あの子だと思う。あの子の名前、一月でしょう?」
「はい」
銀は雨葉と眠る一月の元に歩み寄り、彼の表情を覗きこむ
「雨葉、選んでもらえたんだね」
「銀さん。はい、いっちゃんに選んでもらえました」
「雨葉の善行は主が見てくれていた。主は正しい人間の味方。雨葉が再会できたのも雨葉がこれまで行った行動の賜物」
銀は雨葉の額に、自身の媒体である十字架を乗せる
「よかったね、雨葉。これからも貴方に主のご加護がありますように」
「ありがとうございます」
銀はこの中にいる誰よりも幼く見える
しかし、浩二はこの中で誰よりも落ち着いている様子や振る舞い方から誰よりも年長ではないかと錯覚してしまう
外見と内面が一致しないいい例だと思いながら、銀の様子を目で追った
「さて、そろそろお寝ぼけ理一郎を起こそう」
「理一郎さん、起きていなかったんですか?」
「まだだよ。悠長に寝やがって」
「まあ、主も定められないし仕方ないとは仕方ない・・・それに理一郎はかなり気まぐれ。御風より酷い」
「俺、そこまで言われる必要ある?」
銀の言葉に御風自身も困惑していた
確かに御風も気まぐれだが、そこまで酷くはない
理一郎とは比べるのもおこがましいぐらいだ。彼と比べたら御風はまだ素直な部類だろう
それほどまでに、七中理一郎という人造生霊の気分の落差は激しい
「理一郎は主を定めても、面白くない人間は気に入らないからとぶち殺した前科がある」
「・・・!?」
理一郎の前科を聞いた浩二は、同じく気まぐれ扱いされた御風の方を恐怖がこもった目で見つめる
「あー・・・安心しろ。お前は所有者としては未熟だが、殺したいとは思わねえよ。お前みたいな奴は育て甲斐があるし・・・」
「・・・育て甲斐?」
「とにかく、理一郎と彼女を会わせてみる。雨葉には悪いけど、理一郎の戦力はかなり貴重。必ず所有者を見つけて契約してもらわないといけない」
「わかっています。銀さんにお任せしますね」
「助かるよ、雨葉」
雨葉は若干不服そうな表情を浮かべているが、それでも事態が事態なのだ
自分だけの所有者だと、我儘を言っている場合ではないのだから
それに、理一郎がいれば一月の最大の問題が一つ解決される
独占したいというのは嘘ではない
けれど、一月の問題と自分の欲
天秤にかけて重いのは、一月の問題に決まっている
「そう言えば、契約って?」
「後で説明するとおもうぜ。銀が」
「まずは、理一郎を起こすから・・・行くよ」
銀は「2」の棺桶に手をかける
それは、この場に残された最後の人造生霊の目覚めとなる