16話・憧憬
隠密、間諜には決まった出仕時刻や勤務地はない。いつ呼び出されても対応できるよう、主人の合図を見逃さぬ場所に潜む。任務を与えられていない時は身を隠して護衛するといった感じだ。
エーデルハイト家も同じで、主人であるグナトゥス様や跡取り娘のエニア嬢に数名ずつ交代で付いている。そしてエニア嬢の母の部屋にも護衛として最低一人は付いていた。奥様は病の床に臥しており、一日のほとんどを寝台の上で過ごしている。平民の出だが美しく穏やかで、何より聡明な女性だった。
「あら、新しい方ね」
私が奥様の部屋の護衛に付いた時、声を掛けられた。もちろん姿は隠しているし気配も消している。だが、奥様は私の潜む場所に視線を向けていた。無視するわけにもいかず姿を見せると笑顔で出迎えられた。
「なぜ私の居場所が分かったのですか」
尋ねると、奥様は寝台で上半身を起こした状態で肩をすくめた。可愛らしい仕草だな、と素直に思う。
「ふふっ、実は当てずっぽうなのよ。一人でお部屋に居ても詰まらないから時々こうして遊んでいるの」
「……そうでしたか」
「でも、いつもと違う人が居るなっていうのは分かるのよ。これでも長いことこの屋敷に住んでますからね」
悪戯っぽく笑う奥様に、私は毒気を抜かれていた。破天荒なグナトゥス様の妻であり、活発なエニア嬢を産み育てた方なのだ。肝が据わっているし勘も鋭い。恐らく気配を読み取るくらいはできるのだろう。
「良かったら話し相手をしてくれないかしら」
「は、ご命令ならば」
「やあね、そんな畏まらなくていいのよ。親戚のおばさんだと思って気楽にしてちょうだい」
そう言われても、私には親族と語らった経験がない。物心ついた時にはコルネリアに飼われていた。助け出されてからはパルテナ様の元で修行と勉学に励む日々。血の繋がった祖父母や義理の弟とは生き別れの状態で顔を合わせたことすらない。身内と軽口を交わした経験がないのだ。だらだらと脂汗を流す私に、奥様は困ったように眉尻を下げた。
「ごめんなさいね。困らせたいわけではないのよ。ただ色んな人とお話したいだけなの。ホラ、わたしは出歩けないから」
明るく話しているが、奥様の顔色は悪い。私は覚悟を決め、部屋の隅から進み出て寝台のそばへと近付いた。
「綺麗な瞳ね。芽吹いたばかりの若葉のよう」
目元以外は黒い布で覆い隠している。私の瞳を見て、奥様はそう褒めてくださった。あたたかい言葉と眼差しに胸が熱くなる。母親とは皆このように優しく穏やかな存在なのだろうか。赤子だった私を取り戻すために戦い、コルネリアによって無惨に殺された自分の母に思いを馳せる。もし生きていれば、こんな風に笑顔を向けて話しかけてくれたのだろうか。
「奥様、お嬢様がお見えです」
廊下側の扉がノックされ、奥様が返事をする前に勢い良く開かれた。そのまま雪崩れ込むように一直線に寝台に駆け寄る姿に思わず身を潜める。
「お母様、ただいまぁ」
「おかえりなさい、エニア。まあ、あなたったら顔に砂埃がついたままよ」
「え、うそ。さっき軽く拭ったんだけど」
指摘され、エニア嬢は袖口で雑に顔を拭こうとした。奥様は苦笑いを浮かべて手招きする。
「エレナに見つかったらまた叱られてしまうわよ。ほら、こちらへいらっしゃい」
「はあい」
寝台の傍に膝をつき、顔を近付けて身を任せるエニア嬢。手拭いで優しく砂埃を払う奥様。仲の良い母娘の姿を隠れて見守りながら、ただただ羨ましく思った。
「今日は大河のほとりまで見回りに行ってきたの」
「そんな遠くまで?危なくないかしら」
「全然!ラキオスも一緒だったし」
「あなたが我が儘言って付き合わせたんでしょう」
「違うわよ、勝手に付いてきたんだから!」
会話の中に混ざる青年の名前に嫉妬心が湧く。随分と仲が良い。幼馴染みと言うだけあって、奥様も彼のことをよく知っているようだ。エニア嬢は病弱で外に出られない奥様のため、屋敷に戻るとこうして顔を出し、話し相手をしているらしい。
「くれぐれも無茶をしないようにね」
「大丈夫よ。お父様と私がいるんだもの。帝国なんかに負けないわ!」
「そうね。グナトゥスもエニアも強いから心配はしていないわ。でも」
不意に、奥様の笑顔が曇る。
「クワドラッド州の民も帝国の民も戦争が長引けば疲弊してしまう。早く争いが終わるよう願っているわ」
自領の民だけではなく帝国の国民まで気遣っている。こんなに優しい方がそばにいるのだ。グナトゥス様が謀反など考えるはずがない。そもそも、私が潜入してから怪しい動きは見られない。やはり疑惑は根も葉もない噂に過ぎないと確信した。
エーデルハイト家を貶めるような噂を流した者が何処かに存在している。王都に戻ったら犯人を突き止め、逆に訴えてやろうと決めた。




