7話・名前
修行の合間に本を読む癖がついた。
ヴェルダード家で監禁されていた間、部屋から出られない代わりにたくさんの本が与えられた。今思えば、コルネリアの父親である伯爵の蔵書だったのだろう。王国史や宗教書だけでなく、治水や建築の本もあった。娘のせいで失脚してしまったが、恐らく父親は良い領主だったに違いない。
オルガリエート家に来てからは、パルテナ様が屋敷にある図書室の入室許可をくれた。領地経営や礼儀作法に関する本が多く、それらを時間が許す限り読み漁る。「学院の先生になる気?」とパルテナ様から呆れられた程だ。
貴族学院。
貴族の子供が十から十六歳のあいだ通うことが義務付けられている、王都にある学校だ。両親ともに平民である自分には縁のない場所……のはずだった。
「これから貴方の主人となる方に会わせます。失礼のないようにね」
ある日、師匠と共にパルテナ様に連れてこられたのは大きな街の中心部に建つ立派なお屋敷だった。オルガリエート家も相当大きかったが、比べ物にならない。見ただけで格が違う。目上の立場の人に紹介するということで、普段より仕立ての良い服を着せてもらっている。それでも場違いであるとひしひしと感じた。
応接間に通されてしばらく待つと、小さな少女が現れた。自分よりひとつかふたつ下だろうか。明るい栗色の髪は毛先がゆるく巻かれ、爪の先まで手入れが行き届いている。明らかに身分の高い生まれだ。
その少女は部屋に入るなり、勢いよくこちらへと駆け寄ってきた。そして、隣に立っていた師匠へと飛びついた。
「おじさま! お久しぶりです」
「お嬢様」
飛びつかれた師匠は、苦笑いを浮かべて彼女の肩に手を触れ、そっと身体を離す。それが不満だったのか、少女は少し不貞腐れた。その時にようやく視線がこちらへと向いた。
「ザフィリア様、新しい護衛を紹介──」
「新しい護衛だなんて嫌。今まで通り、おじさまがいいわパルテナ」
パルテナ様の言葉を遮り、ザフィリアと呼ばれた少女はそっぽを向いた。
「お嬢様。お気持ちは嬉しいですが、私はもう今までのようには動けません。それに、学院の中まで付き添うことは流石に出来ませんので」
「……あの時のケガのせい?」
「いえ、傷は完治しております。ですが、私も歳を取りましたから」
どうやら、これまでは王都に行く際は師匠が護衛を務めていたらしい。その際に怪我を負い、ザフィリアはそれを気に病んでいるようだった。師匠に懐いているのも、身を呈して守ってくれたからだろう。
納得いかない彼女はこちらを睨み付けてきた。だが、すぐに溜め息をこぼして俯いた。
「……わかったわ。おじさまに無理させたくないし、パルテナを困らせたくないもの」
案外聞き分けがいい。駄々をこねれば通らぬ我儘などなさそうな身分にも関わらず、少し食い下がっただけで終わった。
「ザフィリア様、改めて紹介を。この者がニクソスに代わる貴女の護衛となります。私の遠縁ということにして貴族学院にも通わせますので、そのおつもりで」
「……そう」
貴族学院に通わせる、というのは初耳だ。貴族の子供しか入学は認められないはずだが、その辺は何とか誤魔化すのだろう。
「あなた、名前は?」
「え」
ザフィリアから直接尋ねられて、頭が真っ白になった。
名前。
そういえば、コルネリアの屋敷に居た時から今に至るまで誰からも名前で呼ばれたことがなかった。それが異常であるとすら思わなかった。
「彼の名前はオルニスです」
「オルニス……」
呆然と立ち尽くす自分に代わり、パルテナ様が答えてくれた。初めて聞く響きに、思わず小さく復唱してしまった。
「これは貴方のご両親が付けた名前よ」
「そう、なんですか」
ぼんやりとしか覚えていない父親の顔と、話でしか聞いたことがない母親。両親が付けてくれた名前だと思うと、冷えた心がじわりと温かくなるのを感じた。
この日、初めて自分の名を知った。




