第三話 私の婚約者様は出て来ません。
「できたわ」
「できましたね」
錬金術に夢中になると何日も食事や睡眠を忘れて没頭する私の監視役として、膝に乗っていた五歳の弟、ノアが床に降りる。
幼いころは熱中する私を我に返すのは婚約者のレニー様のお役目だったわね。
下半身が莫迦でさえなければ良い方なのだけど、下半身が莫迦だからどうしようもない。
思いながら、黒光りする腕輪を見つめる。
同じ素材を使っているからか、ロティ王女にお作りした指輪とよく似ている。
単なる能力封じの腕輪だったらどうしよう。まあ、そのときは伯爵家の宝物庫に保管してもらえば良いのだけれど。
「姉上、この腕輪はどんな効果を持つのですか?」
「わかりません」
領地に戻り、お父様に協力を仰いでも腕輪の効果はわからなかった。
そもそも効果について書いている文字が、この国のものではないのだ。
なにかの職業か魔獣のスキルと同じ効果があるらしい。魔術師侯爵の愛人のひとりだった、東の国から来た女性と関係があるのかしら。その方は、とてもお強かったという。
「庭へ行きましょうか」
「行きましょう」
伯爵家の屋敷の庭には、数十年前の大暴走でブラックドラゴンの眠るダンジョンからあふれ出た魔獣が投げた大岩がある。
適切に魔獣を間引きしないと大暴走が起こるのだ。
かといってダンジョンの魔獣を退治し過ぎて、最下層に眠るブラックドラゴンの近くまで降りてしまうと、うなされたドラゴンが鳴く。その鳴き声は伯爵領全体を覆い、か弱い子どもや老人、病人、家畜を殺し農作物を枯らし、逆に死んだものを蘇らせて吸血鬼と呼ばれる化け物に変える。
今は下半身が莫迦な魔術師侯爵の時代ではないので、ドラゴンを退治できる人間はいない。
ブラックドラゴンは、魔獣ではなく神獣と呼ばれて崇められているブルードラゴンとは違って知能が低くて理性がなく、人間と会話することができない。
ダンジョンの魔獣を定期的に間引きしながら、眠り続けてくれることを祈るしかないのだ。
ブラックドラゴンを刺激するのも良くないので、友軍と称してダンジョンに潜っている侯爵家の騎士団が、調子に乗って下層へ降りている問題も早急に解決しなくてはいけない。
レニー様は雷の魔力に恵まれていて、剣から雷を発することで強い魔獣を一撃で倒したり、多くの魔獣を一斉に倒したりすることができる。魔術学園に入学する前から侯爵家の騎士団に混じってダンジョンへ潜っていた。
初めてダンジョンで得た宝石のような魔石は、ブローチにして私にくださったのでしたっけ。
まあ最近採取した魔石は、愛人の家を買う資金になさったのでしょうけど。
「ふんぬ!」
「姉上頑張れー」
庭の大岩を全身でつかんでみたが、ぴくりとも動かなかった。
怪力になる効果がある腕輪ではないようだ。
「東から来た女性のスキルだとすると、分身の術ではないですか?」
「やってみましょう」
ノアの周りを走り回ったが、分身はできなかった。
素早くなる効果もなさそうだ。
変身もできないし、蛇や蛙も呼び出せない。投擲も、昔コカトリスの羽で作った必中の羽を使わなければ的に当たらない。
「……高位の魔獣素材は錬金術で含ませた魔力に反発します。自分の血を使うことで馴染ませたつもりでしたが、きちんと魔力が溶け込んでいないのかもしれません」
「だったら形も変わらないでしょう、姉上」
「そうですよねえ?」
首を傾げたとき、メイドのケイトが庭に現れた。
思わず体が硬くなる。
寝食を忘れて錬金術に打ち込むたびに怒られていた記憶が抜けないのだ。今回ノアを監視役につけたのも彼女である。
「ノア様、おひとりでなにをなさってらっしゃるのですか?」
領地に戻ってからずっと錬金術に没頭していたけれど、食事や睡眠は忘れていなかったのだから、そんな言い方はないと思うの。
「姉上の腕輪の検証をしていたのです」
「姉上? ノア様にお姉様がいらっしゃいましたか?」
「酷いわ、ケイト」
軽く腕を突くと、ケイトは跳び上がった。
「え? チルダ様? あ、ああ、そうですね。チルダ様はノア様のお姉様で……も、申し訳ありません。どうしてか先ほどは、すっかりチルダ様の存在を忘れておりました」
「?」
「?」
私とノアは顔を見合わせて、同時に気づいた。
「「隠密?」」
魔術師侯爵の愛人だった東から来た女性は『KUNOITI』と呼ばれる女忍者だった。
忍者には自分の存在を消して闇に溶ける隠密というスキルがある。
下半身は莫迦でも偉大な魔術師侯爵はそのスキルをさらに発展させて、存在を感知できないどころか、存在していたことまで忘れさせてしまう呪術的効果を持つ魔道具を開発していたのだった。だれかに触れると、その相手には効果がなくなる。ノアは腕輪をつけて発動したときも膝にいたから、効果がなかったのね。
これでレニー様から逃げられる……かしら?