第一話 私の婚約者様は下半身が莫迦
「王都に家を買ったんだ」
「はあ……」
私こと伯爵令嬢チルダは、婚約者の侯爵令息レニー様の言葉に力の無い相槌を返した。
どういう反応を示せばいいのか、わからなかったのだ。
侯爵家は王都に屋敷を持っている。今私達ふたりがいるのは、その屋敷の応接室だ。
お引越しするということかしら。
それともレニー様だけひとり暮らしをなさる?
なにからどう聞けばいいのかもわからないでいる私に、レニー様ははにかんだ表情を見せた。
「この間のメイドは、そこに住まわせようと思っている」
愛人に家買った宣言ですかっ!
先日メイドに手を出したことを聞いてから日々減少し続けていた彼への愛情が、もはや完全に消え失せる。
もう、やだ。なんなの、この人。
未来のお義母様、現侯爵夫人にもお聞きしていたけれど、これが侯爵家の血か。見目美しく文武に優れるが、下半身関係は莫迦。侯爵夫人もご苦労なさったのでしょうねえ。いいえ、今もご苦労なさっていましたね。
「……チルダ、怒ったかい?」
絹糸よりも細い銀の髪を揺らし、均整の取れた長身を曲げて、赤みがかった黒い瞳が見上げてくる。少し掠れた低い声が甘く耳をくすぐった。
自分の魅力を熟知した行動だ。
大人びた顔に成長していても彼は美しく愛らしい。
怒っているというより呆れているんですよ。
溜息を心の中で飲み込んで、私は笑みを作る。
家格が違うから、伯爵家からはこの縁談を断れない。お母様は元公爵令嬢だけれど、死んだことになっていらっしゃるものね。
「いいえ。レニー様のように素敵な方を私ひとりで独占できるとは思っておりませんでした。……ただ」
「ただ?」
「その方にお子ができたときは、すぐに知らせてくださいましね? 私とレニー様で引き取って、きちんと侯爵家のものを相続できるようにして差し上げましょう」
この国では庶子の相続権はない。
「ありがとう、チルダ。僕の正妻は君だけだよ」
正妻が何人もいちゃたまりませんよ。遺産相続どうするんですか。
彼と愛人の間の子どもを引き取るという言葉には、その子を跡取りにするから私とは子作りしないでくださいね、という意味を含ませたつもりだったのだが、レニー様には通じていないようだ。
ああ、やだやだ。どうしたら、彼から逃げられるのかしら。
「……」
「チルダ、やっぱり怒ってる?」
「失礼いたしました、レニー様。黙っていたのは魔術学園の卒業論文について考えていたのです。良い資料が見つからなくて」
「そういうことなら、我が家の書庫でも見てみるかい?」
「よろしいのですか?」
侯爵家の先祖には偉大な魔術師がいる。
気体に魔力を含ませて発動する魔術。
固体、もしくは液体に魔力を含ませて魔術薬や魔道具を作り出す錬金術。
人体に魔力を含ませて相手を操る禁断の呪術。
今はみっつの学問に別れている魔術をすべて習得し、自在に使っていた天才だ。
もっとも侯爵家の人間らしく下半身は莫迦だった。
魔術がみっつの学問に別れたのは、彼が正妻と愛人の子ども達で教える分野を違えたからだとも言われている。
侯爵家の図書室の書庫には、下半身は莫迦だった偉大な魔術師の記した魔術書がある。
「ありがとうございます、レニー様。なにか書くものをお借りしてもよろしいでしょうか」
私が得意とするのは錬金術、固体に魔力を含ませて魔道具を作る力だ。
魔獣から採れる魔石を使うことで錬金術師でない鍛冶師でも魔道具は作れるし、そもそも錬金術師の作る魔道具は使用者が限定される。
おまけに私が魔力を含ませられる固体が特殊な魔獣素材限定ということで、なかなか使い方が難しい。実家の領地で暮らすお父様のように、液体全般に魔力を注いで魔術薬を作る錬金術なら良かったのに。
「なんなら持って帰るかい? 一日だけということで父上に許可をいただくよ」
下半身は莫迦だけど、こういう交渉は得意だし後から私のせいにしたりするような方ではない。……下半身は莫迦だけど。
「ありがとうございます!」
「チルダは本当に勉強が好きだね。少し妬けてしまうよ」
愛人に家買った人間がなに言ってるんですか。
「だけど、君のその嬉しそうな顔は魅力的だよ」
顔を近づけてくるレニー様を無視し、私は応接室を出た。
侯爵家の図書室の場所は知っている。
「どうなさったのです、レニー様。早く図書室へ参りましょう」
「う、うん。そうだね」
キスがしたいのなら愛人としてください。
……ああ。どんなに拒んでも結婚したら迫ってくるのでしょうね。下半身が莫迦なのだもの。
魔術学園を卒業したらすぐ結婚したいとも言われている。
なにか、なにか良い逃亡方法はないかしら?