花束と共に
夏の尖った空気が丸みを帯びて、スンと澄んだ空気が空高く突き抜ける。風は少しばかり肌寒さを増してきたけど、それでもお日様は柔らかだ。
そんな絶好のお出かけ日和に、私は腕を組んで仁王立ちをしていた。
目の前には、ソッポを向いたヒロ君の姿。
「……悪い、遅くなった」
「本当だよ」
ヒロ君はいつもそうだ。私との約束にすぐ遅刻してくる。しかもあんまり悪びれない。寝坊しただの、約束を間違えていただの、道に迷っただの。いつだって遅れてきて、悪い悪いと、大して悪く思ってなさそうに言ってのけるのだ。
だけど今日は珍しく殊勝な感じ。左手を後ろにしたまま、居心地悪そうに立っている。視線があちこち落ち着かない。
――ふふん、と私は心の中でほくそ笑む。
そう簡単になんて、許してやらない。
「……俺がこんなに遅れたのは、チカも悪いんだぞ」
「何でだよー」
まさかのいきなりの反逆だ。
私は口を尖らせて、ヒロ君に拳を振りかぶってみせた。だけどヒロ君は動じない。ちょっと不機嫌そうに口を尖らせて、目線は私の足元くらい。まあ、本当に叩いたことなんて今までもなかったから。私はとてもお淑やかなレディなのだ。
惚れた弱みってやつだろうか、反撃を考えあぐねている私に、ヒロ君は容赦なく追撃をかましてくる。
「今日こそ言わせてもらうけどな。大体、お前ってば怒りっぽいし」
「怒らせてるのはヒロ君だよ」
「ワガママ言いたい放題だし」
「彼女の可愛いおねだりじゃんか」
「すぐ泣くし」
「ヒロ君の前でだけだもん」
「そのくせ甘え上手で、俺のこと世界一カッコイイとかアホなこと言うし」
「本当だから仕方ないじゃん!」
「それに……」
「まだあるの?」
呆れた私に、ヒロ君が口をへの字に曲げる。怒りやすいのはヒロ君の方だ。でも、怒り方が子供っぽくて、だから私はつい笑ってしまいそうになる。
ヒロ君は黙ったまま鼻の下をかいた。そこで意識したけど、少しの煙たさが鼻につく。
「……思えば、色んなところに行ったよな」
「え?」
まさかのまさかの。話の飛躍に私は目をまん丸にしてしまった。だけどヒロ君は素知らぬ顔で続けてくる。
「下校中はよく買い食いしたし」
「……そうだね」
少し考え、私は流れにのってやることにした。うむ、それくらいの慈悲はあげてもいいだろう。
「祭でラムネを半分こにしたの、今でも覚えてる」
「間接キスだ、ってドキドキしたね」
お花見もして、お祭りに行って、ああ、遊園地に行ったときは今日みたいな天気だったっけ。紅葉がまだ中途半端で、でも、とても秋の匂いがした。
「そうそう……冬だってのにさ、チカ、髪切ったじゃん。ばっさり。あれ、俺、すごくびっくりして」
またまた急な話に、私は思わず首を傾げた。だけどヒロ君は気にした風もなく続けてくる。
「あれ、やっぱ俺のためだったのかな」
「今頃気づいたの?」
「あのときは恥ずかしくて言えなかったけど、……似合ってた」
俯いたヒロ君は、右手で耳の裏をかく。照れたときに出るヒロ君の癖。
ヒロ君のあからさまなご機嫌取りに、それでも私は頬を緩ませた。全くもう。そんなにショートヘアが好きかい、ヒロ君め。
かくいう私も、ヒロ君の癖のあるツンとした髪が好きなのだ。
風が吹き抜ける。イチョウの葉が遠くで擦れる。
ふぅ、とヒロ君は息をついた。何だかとても寂しいふぅだった。
「……こんな花束でお前が許してくれるとは、思ってないけど」
そう言ってヒロ君は、今まで背中に隠していた左手を出して、小さな花束を取り出した。薄紫の、花弁が小さな、可愛らしい花。薔薇みたいに派手じゃない。立派じゃない。だけどふんわりと優しくて、とても落ち着く花だった。
「これ、確かチカが好きだって言ってたろ」
「……覚えててくれたんだ」
これを、買ったのかな。ヒロ君が。私のために。
一体どんな顔で、どんな気持ちで、ヒロ君は花屋さんに行ったんだろう。単純な私はたまらなくなってしまう。うわあ、うわあ。もったいない。直接見たかった。
「シオン、だっけ。チカがこの花好きだって言ったとき、俺、似合わねーなんて笑っちゃったよな。それでチカ、すぐ怒って。俺もすぐムキになるから、喧嘩もよくしてさ。大体、謝るのはいつも俺なんだ。―ーあのときだって、謝れば良かった」
「……ヒロ君」
「変な意地なんて張らないでさ。土下座でも何でもして謝れば良かったんだ。そうすれば……」
そうすれば。
きっと、そのまま楽しくデートを続けられた。
ほんの些細なことで喧嘩して、私が逃げ出さなければ。ヒロ君とずっと一緒にいれば。
そうすれば……。
ヒロ君がしゃがみ込んで、花束を静かに私の足元に置いた。雑なことが多いヒロ君にしては随分と優しい手つきだった。おかしいけど、私は少しだけ、その花束に嫉妬しそう。花束のくせに優遇されちゃって、まあ。
「バカだなあ、チカ」
私の気持ちを読み取ったわけでもないだろうに、ヒロ君ってばそんなことを言う。空々しい呟きは、冷えてきた空気によく馴染んだみたいだった。
「寂しがり屋のくせに、勝手にどっかいっちまうなよ。ドジだったのは知ってたけどな。周りをちゃんと見ろ。車が突っ込んできたら逃げろ。鈍くさいんだよ、昔から。……いきなりすぎて、心の整理もずっとつかなくて、こんなに遅くなっちまっただろ」
声を震わせながら、ヒロ君は、冷たい墓石をつるりと撫でる。
ごめんね、とは、言葉にならなかった。私はただ立ち尽くす。ヒロ君のつむじをじっと見る。
ヒロ君は耳の裏をかいた。
「また来る」
「本当に?」
「今度は、もっと大きい花束、持ってきてやるから」
そう言って笑うヒロ君の顔は、優しくて。私の大好きな、大切な笑顔で。
聞こえていないのを知っていて、それでもやっぱり、私は笑って囁いた。
ばかだなあ、ヒロ君。
だいすき、だよ。