喪失【3】
その時だった。
ミルトンは身体に乗っていた体重が軽くなるのを感じた。
気付けばボーア兵は頭から血を流しながら横に倒れつつある。
その目はあらぬ方向に向いていた。
「無事か、ミルトン」
そこにいたのはショーンだった。
血の付いた大砲の玉を取り落とし、ショーンはミルトンを立たせる。
「先にロンドンに行ったのかと思ったぞ」
ショーンは口元に笑みを浮かべ、ミルトンの右腕を肩に回した。
「これからだよ。悪態を吐く野郎がいなけりゃ、道中退屈で死んじまう」
思わずミルトンは笑い出しそうになった。
今の今まで殺し合いをしていたのが嘘のようだ。
再び生きる希望が注がれていく。
「よし、帰ろう」
ショーンの周りには3人の英国兵がいた。
皆土まみれで、中には額から血を流している者もいた。
「少佐は立て直しを図ってるが、はぐれちまった」
「付き合ってられねえ。ずらかろうぜ」
口々に言う声を聞き、ミルトンはただ頷いた。
テントの陰に隠れながら、冷静にショーンが皆に告げる。
「大体のボーア兵は少佐を狙って北側に移動してる。俺たちがいる辺りは手薄だ。生き残りを始末してる奴がいるくらいだろう」
ショーンはライフルで、ミルトンが来た方角を指した。
「俺たちが最初にボーア兵を見つけた場所を覚えてるか?そっちから降りれば」
「敵兵は少なく、俺たちは無事生き残れるってわけだ」
ミルトンがその言葉を引き継ぎ、ショーンは深く頷いた。
そこからは先ほどと同じだった。
隠れ、様子を伺い、移動する。
ショーンの読み通り、ボーア兵の姿はほとんどない。
元よりボーア兵の数が少なかったのだろう。
順調に来た道を辿るミルトンの目に、英国兵の死体が無残に転がっているのが見えた。
「ああ、ウォーレン。そんな」
誰かがそう呟いた。
ウォーレンと呼ばれた死体は、胸を撃たれたらしく苦痛に歪んだ顔で夜空を見上げていた。
「一緒に訓練したんだ。良い奴だったよ」
震えた声がミルトンの耳に入る。
しかしそれも、遠くから聞こえる銃声が搔き消した。
「彼は神のもとへ行ったんだ。俺たちまで続くわけにはいかない」
誰かがそう言い、再びミルトンはショーンに支えられながら歩を進める。
ショーンは口を結び、思いを堪えていた。
「ああ、ああ。行こう」
震えたその声を合図に、ミルトンとショーンは駆け出した。
仲間達が後に続く。
「走れ、走るんだ」
ショーンの声が響く。
ミルトンは懸命に脚を動かした。
幸いにもボーア兵の姿は無かった。
一刻も早く戦場を離れたいという気持ちが、皆の疲れを吹き飛ばしていた。
更に足早に歩を進める。
丘の端はもうすぐだった。
そこまで行ってしまえば木々が姿を隠してくれる。
もはや身を隠すこともなく一気に進む。
気付けばミルトンは、木の根元に倒れ込んでいた。
〈助かった〉
そう呟こうとしたミルトンの耳に、銃声が飛び込んできた。
素早く後ろを振り返ったミルトンに、ショーンが覆い被さるように倒れこむ。
ミルトンの顔にショーンの血が降りかかり、続く銃声と共にミルトンのすぐ隣の樹皮が弾けた。
「ミルトン、伏せろ」
ショーンの首は先ほどの樹皮のようにえぐれていた。
破れて垂れ下がった皮膚を伝い、血が溢れ出す。
「ショーン、お前」
隣で仲間がライフルを構えるが、引き金を引く前に2発も撃たれて崩れ落ちる。
彼の悲鳴は短く、ボーア兵はそれを見て鬨の声を挙げた。
8人はいる。
逃す気は無いらしい。
ミルトンの頭は真っ白だった。
何を考えればいいかもわからない。
口に入ったショーンの血は死を連想させるに十分だった。
そして今まさにショーンは死を迎えようとしている。
ミルトンは医者ではないが、大きな血管が切れたのはわかった。
既にグラス一杯分は血が吹き出ているだろう。
「行け、ミルトン。行くんだ」
ショーンはミルトンの身体を押し出そうとしていた。
ボーア兵はすぐそこに迫っている。
助からないとわかっていても、ミルトンはどうしてもショーンの腕を離すことができなかった。
見兼ねた仲間達がミルトンを引き剥がす。
「走れ。止まるんじゃない。いいな」
ショーンの顔が、視界が歪む。
腕を掴んだ誰かが倒れこみ、ミルトンは引っ張られるように脚を踏み外した。
身体のあちこちをぶつけながら斜面を転がり落ちて行くその時、ミルトンはようやく自分が涙を流していることに気が付いた。