喪失【2】
その後の出来事を、ミルトンは生涯忘れることはないだろう。
ショーンが叫び、ミルトンは無我夢中で前方へと飛び出した。
既に目の前のボーア兵は装填済みのライフルを構えていたが、懐に入ってしまえば関係が無いと考えたからだ。
ライフルを持つ腕を蹴り飛ばし、肩を掴みながら引き倒す。
咄嗟の出来事にボーア兵は虚を突かれた様子で、斜面を転がっていく。
アフリカーンス語で何かを叫んでいたが、口汚い言葉に違いないとミルトンは悠長に思った。
ついであちこちから声が聞こえたかと思うと、それに混じって銃声が飛び交い始める。
完全な奇襲だった。
この場に駐留していることが知られていたとは。
先の苦々しい敗北と共に仲間の死体を運んだことを思い出し嫌な汗が噴き出す。
ミルトンはライフルを構えると、姿勢を低く保ちながらも素早く移動を始める。
〈こうなったら敗北は避けられない〉
軍人らしい最期を迎える気は無かった。
どこに潜むかもわからないボーア兵に背後から撃たれて死ぬのはごめんだ。
ショーン達と合流し、素早く一斉に逃げれば生き残れる可能性は高いだろう。
奴らはコリー少佐のいる中央テントを目指しているはずだ。
いつしか悲鳴に変わっている兵士の声が恐怖を煽る。
耳を塞ぎたかったが、暗がりで頼りになるのは目ではなく、狩りで鍛えた聴覚だ。
ボーア兵達は小走りで包囲を狭めていた。
こちらが体制を立て直す前に一気に決める腹づもりなのだろう。
奴らも焦っているというわけだ。
荷物で影になった部分に潜み、外へ出る機を待つ。
2人のボーア兵が前を通り過ぎたのを見て次の影へと移動する。
〈鹿狩りと同じだ〉
背を向けてライフルを構えるボーア兵の背に忍び寄ったミルトンは、ナイフを首筋に向かって突き出した。
低い声を漏らしてボーア兵が地面に突っ伏す。
それを確認してまた別の物陰へ。
既にあちこちに火の手が上がっている。
ランプをテントに投げつけているボーア兵を見かけた。
熱さと恐怖でテントを飛び出した英国兵に銃弾が撃ち込まれる。
下着姿で特攻を試みた者もいたが、すぐさま2人のボーア兵に囲まれ、銃床で顔を潰されていた。
〈まるで地獄だ〉
馬に鞭を入れるように、震える脚を拳で殴りつけミルトンは駆け出す。
しかしすぐに、ミルトンは過ちに気付いた。
左手の死角になっていたところにボーア兵が潜んでいたのだ。
狩人らしく様子を伺っていたらしいが、まんまと獲物を目の前にしたというわけだ。
銃口が向くのを横目で見ながら、ミルトンは時が止まったように感じていた。
銃声が聞こえ、左肩に痛みが走る。
火傷を負った時に近いものだったが、その酷さは一瞬ミルトンが自分の身体に力を入れることを忘れるほどだった。
バランスが上手く保てず、派手に転んでしまう。
地面にぶつけた傷口が、炎に腕を突っ込んだかのような衝撃を与え、飛びかけたミルトンの意識は引き戻される。
〈まだだ〉
歯を食いしばりながら荒い息を吐く。
情けない話だが、そうしなければ赤ん坊のように泣き喚きそうだった。
呼吸が整うのを待つ暇は無い。
ミルトンを撃ったボーア兵は、余裕を見せつけるかのように頭に乗せた帽子を被りなおし、こちらに近づきつつあった。
炎に照らされ汗が滲んだ顔が浮かび上がっていた。
腰から抜いたナイフも光を反射する。
確実に目の前の英国兵を始末するつもりだろう。
ミルトンもナイフを抜き、立ち上がる。
変に力が入る度、左肩は尋常ではない痛みを発していた。
ぶらりと下げた左腕からは血が滴っていた。
「どうした、来いよ」
ミルトンは唸るように言った。
言葉が通じないことはわかっていたが、強がってでもいなければその場にへたり込んでしまう。
〈死ぬなら道連れだ〉
愛国心からではない。
こんなくだらない戦争で、無抵抗のまま死んでやるつもりはなかっただけだ。
ボーア兵はナイフを振りかざし、ミルトンの眼前に迫っていた。
振り下ろされるナイフを右に避けると、そのまま腕を突き出し肩を狙う。
しかしボーア兵も巧みにそれを避け、2人はナイフを構えて対峙する形となった。
ボーア兵が何かを呟いたが、ミルトンには英国人という言葉だけが聞き取れただけだった。
彼にとっては自分も単なる侵略者の1人なのだろう。
ミルトンはナイフを構え直すと、真横に2、3度ナイフを振り抜く。
牽制の意味を込めたものだったが、その狙いは的中した。
ボーア兵は警戒を露わにしながら後ろへと下がる。
ミルトンはその隙を突いて、ナイフを構えたままだったボーア兵の右手に蹴りを入れる。
全くの予想外だったのだろう。
ナイフを取り落としはしなかったものの、腕は身体から離れていく。
〈身体ががら空きだ〉
そこにミルトンはナイフを突き出す。
ショーンとの練習でよくやっていた技だった。
しかし、アフリカの大地で育ったボーア兵は一枚上手だった。
彼はミルトンが次に動くより先に、その大柄な身体で突進してきたのだ。
猛獣のような唸り声が目の前に迫り、蹴りを入れて体制が乱れていたミルトンは簡単に倒されてしまう。
打ち所が悪かったのか、再び左肩に激しい痛みが走り、ミルトンは苦痛に喘いだ。
直後のしかかるようにボーア兵が組み付き、ナイフをミルトンに振り下ろす。
すんでのところでミルトンはその腕を抑え込むが、左腕が使いものにならない以上、ナイフは着実にミルトンの首筋に近づいていった。