見て見ぬ振りはできなくて
「お疲れ様です」
「あ、信くん? そっか、もう上がりか。お疲れ様――」
本日のバイトも終わり、僕は帰途につく。
「あー、今日も疲れたー……」
日が沈み、辺りが薄暗くなる時間帯。体にかかる疲労により、体が自然と猫背になるのが分かる。
しかし、最近は部活も休みだからマシと言えばマシな方であり、このような疲労は仕方の無いことだった。
……今日は早く寝ようかな。
「あ、駄目だ。今日はガキ共と遊ぶ約束してたんだ」
――"ガキ共"と言うのは、孤児院の子供達……もっと正確に言えば、小学生以下の子供達のことである。
僕の住む孤児院は、幼児から大学生というように年齢層が広いのが特徴であり、かなり特殊だった。
院長であるおばさんは資産家のようなものらしいのだけど、詳しいことは僕もよく分かっていない。
分かっているのは、学校等のお金は全ておばさんが払ってくれていることぐらいである。
そして、その孤児院のさらに特殊なことと言えば、"進路を自分で決められること"だった。
これがどういう意味か。
普通の孤児院は里親に引き取られていくのが普通である。
しかし、この孤児院は"里親に引き取られたくない"という選択肢がある。
もっと簡単に説明すると、"里親に誰にも引き取られずに自立を目指す"ことが可能なのだ。だから、孤児院には大学生も数人存在する。
そんな特殊すぎる孤児院のおばさんは、僕の育ての親でもある。
僕の母親は、既にこの世にいない。「シンを産んでその一ヶ月後に亡くなった」と、おばさんから聞かされていた。
父親は分からない。
けれど、おばさんが母からよく父の話を聞かされていたということを聞く限り、捨てられた訳ではないようだった。
「――やめてくださいっ」
「いいから黙ってついてこい!」
ふと、路地から言い争う声が耳に入って足を止める。
その声が気になり、そっと声の聞こえた路地を覗いた。
するとそこには、大柄のモヒカン男が眼鏡をかけた女子の手を掴んで無理矢理どこかに連れていこうとしている現場。
髪型モヒカンの人って初めて見た。
「いや、それはどうでもいい。あれは、誘拐……? それとも、ナンパ……? そもそも、何でこんな時間に、こんなところに女の子が……」
数々の疑問はあった。そこでようやく、僕はあることに気づく。
「あの制服、うちの高校の制服?」
ここって、高校の近くでもないのに……帰り道だったとか?
考えても分からない。でも、黙って見ている訳にもいかない。すぐに所持していたスマホで警察に通報する。
「これでよしっ」
通報し終わり、あとは警察が来るまでの時間稼ぎだ。
彼女も抵抗しているために通報する時間はあったものの、このままでは警察が来る前に彼女がどこかに連れ去られてしまう。
僕は手首と足首を回して手短に準備運動を済ませる。
そして、クラウチングスタートの構えを取り――男に向かって突っ込んだ。
「そおいっ!」
「うおっ!?」
「きゃっ」
男の横っ腹に思いっきりタックルをかますと、男は突然の横からの衝撃に耐えきれなかったようで、体勢を崩して倒れる。
しかし、男はすぐさま、よろめきながらも立ち上がった。
……まあ、これぐらいじゃ駄目か。
「てめえ、よくも邪魔してくれたなあ!!」
顔を真っ赤にし、頭に血が上っている様子の男が殴りかかってきた。
僕は路地に落ちていた鉄パイプを拾って――。
「ふんっ」
「ぐっふぉ!?」
――金的を突く。
男は堪らず股間を押さえて地面に蹲る。やっぱり、男にはこれが一番だ。急所だし。
そして、後ろを振り返り、口を開けて呆然としていた眼鏡女子に話しかける。
「とりあえず、警察呼んできてください。さっき通報したので、そろそろこの辺りに来ると思います。それまで、僕が引き受けるので」
「あ、はい、分かりましたっ。ありがとうございますっ」
彼女は丁寧にお辞儀をしてから小走りで路地から出ていった。飲み込み早いな。助かるけど。
「こんの、やろう……!」
「マジですか」
男はよろめきながらも立ち上がっていた。そして、手に握られているのは鉄パイプ。
僕は確かに金的を突いていた筈だ。手応えもあった。それなのに立ち上がるとか、しぶとすぎるだろ。
「この糞チビが!」
「……あ゛?」
男の口から出た言葉が、脳内で反芻する。
確かに、僕の身長は一六一センチと、男子高校生にしては身長が低い。それは分かっている。
でも、"糞野郎"でよかったところをわざわざ"糞チビ"って言う必要あった?
「死ねっ!」
「断る!」
再び殴りかかる男に、僕は手に持った鉄パイプで足を払う。鈍い音がしたが、折れてはないと思う、多分。
さらに、転んだ男に向かって、背中に背負っていたバッグを――。
「へぶっ」
――顔面に叩きつけた。苛立ちも込めて、それはもう全力で。
当然、男は避けることもできずに顔面に直撃し、地面に仰向けで倒れ伏す。そして、ピクリとも動かなくなる。
……死んでないよね。いや、殺されそうになったのはこっちなんだけど。
ちょっと心配になったので、男の状態を確認しようと近づく――が、それは大きな失態だった。
「――っ……!?」
「残念だったなあっ!」
男は気を失ってなどいなかった。僕を騙すためのフェイクだった。
腹に深々と刺さったナイフを、男は躊躇なくそのナイフを引き抜く。すると、その部分からはドバドバと血が溢れ出した。
――こいつは、逃がしたら危険だ。人殺しに慣れてる。
「はっ、こんなもんか」
「らあ゛っ!!」
「がはっ!?」
余裕ぶった男の腹を、力を振り絞って蹴り飛ばす。
男は反撃されるなど思いもしなかったのか、蹴り飛ばされた勢いで頭を壁に打ちつけ地面に倒れ伏した。
今度こそ、ちゃんと気絶させられ――。
「ぶふっ」
体内から逆流するように込み上げてきた何かを、口から吹き出す。地面には、スプレー缶で吹きつけたように広がる真っ赤な液体。
それが僕自身の血であることは明白だった。
……病院、行かなきゃ。
路地裏からを出ようと足を動かそうとするが、力が入らずそのまま前のめりに倒れる。血が足りない。
「……皆、ごめん……」
約束、守れそうにないや。
もう、呟くことすらままならない。
意識が朦朧としている中、視界が急に真っ白に染まり――それが最後に見た光景だった。